明智光秀

人物

明智光秀(あけちみつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。越前の朝倉義景に仕えた後、織田信長に従う。細川藤孝(幽斎)と共に将軍足利義昭と信長の間を取りもち、公家との交渉で力を発揮した。信長の命で丹波(現在の福知山、亀岡、南丹、綾部、京丹波と兵庫県篠山、丹波の各市町)を平定し、福知山城(福知山市)を築城した。亀山城(亀岡市)から出陣し、信長を本能寺(中京区)で討つ。わずか10日余り後、天王山(大山崎町)の戦いで豊臣秀吉に敗れてその日に命を落とし、「三日天下」と言われるようになった。生誕 1528年頃命日 天正10年6月13日(1582年7月2日)秀岳院宗光禅定門前日洲条鉄光秀居士長存寺殿明窓玄智大禅定門<<...
年表

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変。織田信長が京都の本能寺で明智光秀におそわれ、自刃。<< 戻る
便り

本能寺-京都府京都市中京区

本能寺 法華宗(本門流) 京都府京都市中京区寺町通御池下る1415年 妙本寺の綱紀の粛清に努めていた日隆聖人が、その志を遂げられず妙本寺を去り、油小路高辻と五条坊門の間の地に寺門を開き本応寺と号した1582年 本能寺の変にて焼失。信長公自害(リンク先より) << 戻る