buddhism

寺院

新善光寺-北海道札幌市中央区

・新善光寺 浄土宗 北海道札幌市中央区南六条西1-2明治15年、大谷玄超上人が大本山増上寺特命開教師として北海道一円を巡教した際、札幌に一寺創立を計画しました。明治17年、薄野の一角に新善光寺公称の許可を得て草庵を建立し開山に至りました。(リンク先より) << 戻る
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興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が法相宗の大本山に

1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が法相宗の大本山となった。<< 戻る
寺院

身延別院-東京都中央区

・身延別院 日蓮宗 東京都中央区日本橋小伝馬町3-2明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。(リンク先より) << 戻る
寺院

常宿寺-愛知県一宮市

・待鳳山 常宿寺 曹洞宗 愛知県一宮市住吉1-7-12常宿寺開創木村観洲尼は、中嶋郡本神戸村字宮山田中新兵衛氏の長女として、嘉永6年(1853年)7月6日誕生。明治3年(1870年)中嶋郡宮地の(当時は曹洞宗)報恩寺四世木村恵光尼の養女となり、同13年に相続、五世となられましたが、明治34年頃報恩寺を退いて、当地通称南木(なぎ)に移られました。(リンク先より)※明治13年(1880年) << 戻る
寺院

正行寺-北海道厚岸郡

・正行寺 真宗大谷派 北海道厚岸郡厚岸町大字梅香町1厚岸は古くから栄えた要港であり、地元住民の心の拠り所として明治十二年説教場設立を開拓使厚岸分署に出願、同年許可を得た。正行寺の創立である。直ちに新潟県頚城郡斐太村(現新井市藤塚)出身で当時、札幌別院在勤中の朝日恵明を根室方面開教出張を命じた。恵明は明治十二年十二月二十日に着任し、湾月町に一民家を借り厚岸説教場を開設したのが正行寺の始まりである。(リンク先より)※明治十二年  << 戻る
人物

坂本乙女(さかもとおとめ)

江戸時代末期から明治時代にかけての女性。土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。弟に坂本龍馬がいる。 本来の名は留で、「乙女」は「お留」への当て字である。「乙女」を「とめ」と読むこともある。薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。弘化3年(1846年)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教えた。乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っていた。生誕 1832年2月2日(天保3年1月1日)命日 1879年(明治12年)8月31日<< 戻る
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大久保利通(おおくぼとしみち)

武士、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。生誕 文政13年8月10日(1830年9月26日)命日 明治11年(1878年)5月14日<< 戻る
寺院

大観音寺-東京都中央区

・大観音寺 聖観音宗 東京都中央区日本橋人形町1-18-9鎌倉の新清水寺(廃寺)で1258年(正嘉2年)に起きた火災で観世音菩薩像が崩落し、首だけになった鉄造菩薩頭を東京に移すことになり、1878年(明治13年)に開山された。読みは「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」です。 << 戻る
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村田新八(むらたしんぱち)

武士(薩摩藩士)・政治家。明治10年以降、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)4月11日に正五位を追贈されて名誉回復した。生誕 天保7年11月3日(1836年12月10日)命日 明治10年(1877年)9月24日<< 戻る
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西郷隆盛(さいごうたかもり)

武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される...
人物

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)

仁孝天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室。家茂死後には落飾し、静寛院の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。 「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」は文久元年の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。品位は二品、薨後贈一品。生誕 1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉命日 1877年〈明治10年〉9月2日<< 戻る
人物

木戸孝允(きどたかよし)

武士、革命家。和田小五郎、桂小五郎。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。名の孝允は「こういん」と読まれることもある。父は萩藩の藩医。吉田松陰に師事。のち江戸で剣術、西洋兵学を学ぶ。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導く。慶応2年(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ、版籍奉還の実現に尽力した。明治3年(1870)6月参議。4年岩倉遣外使節団に副使として参加。以後文部卿、内務卿、地方官会議議長、内閣顧問等を歴任。立憲制の漸進的樹立を唱えた。生誕 天保4年6月26日(1833年8月1...
寺院

攝護寺-宮崎県都城市

・攝護寺 浄土真宗本願寺派 宮崎県都城市牟田町2-161876年(明治 9年)都城説教所の設立願書提出1878年(明治11年)都城説教所の建築届提出1882年(明治15年)小鷺巣に説教所が設立/寺号公称を出願1883年(明治16年)浄土真宗本願寺派・天竜山攝護寺の寺号公称認可/佐々木雲嶺(のち鴻基)の開基住職就任1884年(明治17年)現在地に移転完了(リンク先より) << 戻る
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黄檗宗の成立

1876年(明治9年)、臨済宗黄檗派と称していたのを臨済宗から一宗として独立し、黄檗宗(おうばくしゅう)と公称するようになりました。日本の臨済宗の中にありながら、中国式で法要等を行うという点で異なったため、独立して一宗派を成すにいたりました。黄檗宗の起源とする臨済宗は、禅宗五家の内の一派で達磨大師から11代目の臨済義玄(りんざいぎげん)禅師を宗祖と仰ぐ宗派で、中国で起こり日本に伝来してきたものです。<< 戻る
人物

本木昌造(もとぎしょうぞう/もときしょうぞう)

江戸幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三、咲三。なお、木本昌造は誤記である。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。生誕 文政7年6月9日(1824年7月5日)命日 1875年9月3日<< 戻る
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真宗各派、大教院を離脱

1875(明治八)年2月、真宗各派、大教院を離脱。<< 戻る
寺院

中央寺-北海道札幌市中央区

・中央寺 曹洞宗 北海道札幌市中央区南6条西2明治七年八月西有穆山師曹洞宗管長代理として來道せられ、本道各地を巡回しその宗教事務を執る事務所として、開拓使に出願して、南二條西九丁目に於て、千六百貮拾坪の地所を拂下げを受け、 教部省に出願して許可を得て小教院を設立したり(リンク先より)※明治七年 1874年 << 戻る
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澤宣嘉(さわのぶよし)

幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養子。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。生誕 天保6年12月23日(1836年2月9日)命日 明治6年(1873年)9月27日<< 戻る
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大教院開院

1873(明治六)年1月、大教院開院。明治維新当時、新政府は天皇を中心とした神道思想(大教(だいきょう))によって国をまとめあげようと考えました。これを人々に広めるために教導職(きょうどうしょく)が設けられ、全ての神官・僧侶等が兼任させられました。神仏合同による布教が求められ、以後、教導職でない人は、一切の宗教的布教活動は出来ないことになったのです。そして、教導職をまとめたり、大教を広めるための指導機関として、東京に設けられたのが「大教院(だいきょういん)」です。更に、その下部機関として各府県に設けられたのが「中教院(ちゅうきょういん)」や「小教院(しょうきょういん)」です。<< 戻る
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山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)

幕末の外様大名。土佐藩15代藩主。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著の長男。母は側室の平石氏。生誕 文政10年10月9日(1827年11月27日)命日 明治5年6月21日(1872年7月26日)<< 戻る
寺院

円明院-福島県南相馬市

・円明院 天台宗 福島県南相馬市原町区小浜字丸山18円明院(圓明院)は、明治5年(1872)太政官布告で修験宗が廃止されるまでは、羽黒山(山形県)を本山とする羽黒派修験に属し、旧中村藩領本司華輪山日光院末でした。 廃止後、圓明院は改宗して比叡山延暦寺の天台宗派となり現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
寺院

長久寺-山口県岩国市

・長久寺 臨済宗天龍寺派 山口県岩国市美和町生見817明治五年に長徳寺と盛久寺とが合併して改められたものです。長徳寺は、ご本尊の地蔵菩薩は行基の作とされ、嘉元元年に郷士長野修理之助が建立し、善庵慶淑禅師を開山として創建と伝えられています。(リンク先より)※明治五年 1872年 << 戻る
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高野山の女人禁制とかれる

明治五年(1872年)、高野山の女人禁制とかれる。 << 戻る
人物

安藤信正(あんどうのぶまさ)

江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた。生誕 文政2年11月25日(1820年1月10日)命日 明治4年10月8日(1871年11月20日)謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士<< 戻る
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宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止

1871(明治四)年4月、戸籍法改正され宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止。<< 戻る
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毛利敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)

長州藩の第13代藩主。敬親は幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物としても有名である。生誕 文政2年2月10日(1819年3月5日)命日 明治4年3月28日(1871年5月17日)<< 戻る
人物

伊東玄朴(いとうげんぼく)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。名は淵。近代医学の祖で、漢方医が主流の中で、官医界における蘭方の地位を確立。伊東玄朴の墓は台東区谷中の天竜院にある。生誕 寛政12年12月28日(1801年2月11日)命日 明治4年1月2日(1871年2月20日)師天院素行然僕居士<< 戻る
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高野山の寺領を国へ返す

明治四年(1871年)、高野山の寺領や寺有林も政府に返上し、経済的地盤も失いました。 << 戻る
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小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)

幕末の薩摩藩家老、政治家。前名は肝付 兼戈。通称は尚五郎のちに帯刀。維新の十傑の1人。吉利領主。 薩摩藩を雄藩に押し上げた藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たした。生誕 天保6年10月14日(1835年12月3日)命日 明治3年7月20日(1870年8月16日)<< 戻る
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大村益次郎(おおむらますじろう)

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。生誕 文政7年5月3日(1824年5月30日)命日 明治2年11月5日(1869年12月7日)<< 戻る
人物

土方歳三(ひじかたとしぞう)

幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。生誕 天保6年(1835年)命日 明治2年5月11日(1869年6月20日)歳進院殿誠山義豊大居士<< 戻る
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青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改める

明治二年(1869年)、青巌寺と興山寺が合併して真言宗の一寺院となり、高野山全体の寺号だった「金剛峯寺」を称します。<< 戻る