buddhism

中島法雄

法要日記(供養/祈願/布薩)をはじめてみます

私にとって供養、祈願、布薩などの仏事は寺院生活を通して日常生活の一部になっているので、呼吸をするように自然なことなのですが、その法要をどのような気持ちでしているのか、どのような儀式的なことがあるか、どのようなタイミングで実施しているのか、そのようなことをアウトプットしていこうと思います。いずれは動画に切り替えることも考えていますが、編集のことを考えると時間を取られるのが厳しいです。まだ、このように文字や画像を使って伝える方が現時点では丁度良いかなと思っています。法要と言えば、着物を着てお袈裟を付けたたお坊さんがお経を唱えて、法要の主旨を読み上げて、儀式的なことをイメージされると思います。私が実...
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過去七仏(かこしちぶつ)

過去七仏とは、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)までの7人のブッダを指します。・七仏通誡偈・第七の仙人<< 戻る
法要日記(供養/祈願/布薩)

一度ほぼ全てのページを非公開にし、0ベースで必要なものとそうでないものとを整理しました。すっきりしました。

法要サポート

年回忌法要早見表(令和8年・西暦2026年)

年回忌法要早見表とは、その年の年回忌(法事)を一覧で表示するものです。一般的に年回忌を実施する年以外も祥月命日法要を実施する場合もあります。和暦没年 西暦没年 年回忌令和8年 2026年 (亡くなられた時が1回目の命日です)令和7年 2025年 1周忌(2回目の命日)令和6年 2024年 3回忌(3回目の命日)令和5年 2023年 4令和4年 2022年 5令和3年 2021年 6令和2年 2020年 7回忌令和元年/平成31年 2019年 8平成30年 2018年 9平成29年 2017年 10▶ 供養依頼(1ヶ月、もしくは、1年間、毎日供養)和暦没年 西暦没年 年回忌平成28年 2016年...
法要日記(供養/祈願/布薩)

ウェブサイトを運営しているサーバー料金の支払いが結構な金額で辛いですが、気を取り直してカテゴリや過去記事のメンテナンスをしています。頑張る!?

寺院

寺院・僧侶を探す

寺院センターが情報収集した寺院情報をまとめています。試しにいくつか寺院ページを見ていただけると分かりますがタグで「市区町村」「宗派」等々が設定されているので探したい情報を絞って行けます。寺院を探す・・・東京都 | 神奈川県 | 埼玉県 | 千葉県 | 茨城県 | 栃木県 | 群馬県 | 北海道 | 青森県 | 秋田県 | 岩手県 | 山形県 | 宮城県 | 福島県 | 新潟県 | 長野県 | 岐阜県 | 山梨県 | 静岡県 | 愛知県 | 富山県 | 石川県 | 福井県 | 滋賀県 | 三重県 | 和歌山県 | 奈良県 | 京都府 | 大阪府 | 兵庫県 | 岡山県 | 鳥取県 | 島根県 |...
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身・口・意の三業(さんごう)

食べる、寝る、座る、立つ、歩く、走る。身体で表すどんな動きも自分以外のものに影響を与えています。また、自分以外のものや環境から影響を受けて自分の身体が動いています。言葉で表すどんなことも正しく伝わっているか、伝えたつもりになっていないか注意します。言葉は何かを仮に表したもので、完全なものではありません。心に表れるどんな想い・考えも偏っていないか、その想い・考えに囚われていないか注意します。心に表れたことに囚われると、言葉になり、身体の動きになります。そのような行為のことを業(ごう)といいます。これらの、身体(身)、言葉(口)、心(意)を三業といいます。例えば、地震や大雨などの災害支援ボランティ...
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ブッダガヤ – ブッダが悟りを開いた地(仏陀伽邪)

ブッダガヤはブッダが悟りを開いた地として仏教の四大聖地および八大聖地の一つに数えられます。この一帯には悟りを開いた場所であるブッダガヤの菩提樹(マハーボディー寺院・大菩提寺境内)、苦行を放棄したあとに沐浴(もくよく)したネーランジャラー川(尼連禅河)、乳粥供養を受ける切っ掛けとなったスジャータ村のガジュマルなどの旧跡があります。また、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)はそこから北東約7kmほどという位置関係です。<< 戻る
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乳粥(ちちがゆ)

乳粥の作り方がインドマイトリの会の会報49号(2002年12月8日発行)に掲載されていましたので、許可を得てこちらでも紹介させていただきます。中道に気づき、苦行を放棄したブッダが、村娘スジャータから供養を受けたのがこの乳粥でした。体力を取り戻したブッダはその後、悟りを得ることになります。【材料】4人分新米のインディカ米(日本米でも可)200㌘牛乳1㍑・ギー(バターでも可)5㌘干しぶどう20㌘・カルダモンホール4粒ベイリーフ(ローリエ)3枚・砂糖200㌘【作り方】①米を洗って、水気を切っておく②鍋にギー(バター)を入れて、米を5分ほど炒める③牛乳、干しぶどう、カルダモン、ベイリーフを入れ、弱火で...
中島法雄

祈願依頼のページをリニューアルしました

祈願依頼の受付も再開しました。依頼して下さる方も、祈願を実施する側としても、本質をついた形での法要実施になることでしょう。1回の法要でお布施をいただいた方が寺院側も楽かもしれませんし、依頼者側も1回の祈願で済んだ方が楽かもしれません。しかし、そんな簡単なものではありません。祈願する方向に毎日想いを進めていけば、行動も変わります。少しずつでも進んでいれば、大きな流れを生むかもしれません。祈願主が願いをこめられない時にも、そこに意識を向けられない時にも、毎日依頼者の祈願を途切れず実施しています。祈願依頼をしたから手放しで必ず叶うというものではなく、自分の想いがどちらに向いているかを定めることです。...
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祈願依頼(1ヶ月、もしくは、1年間、毎日祈願)

祈願法要とは、厄除開運、家内安全、身体健全、心願成就、無病息災、交通安全、商売繁盛、合格祈願、就職成就、良縁成就、因縁消滅などを祈願・祈祷することです。祈願(対象者は生きている方)自身や家族、知人の将来に気持ちを向ける時、前向きな気持ちと同時に、不安な気持ちも交差しています。これは当然なことで、誰しも良くなる可能性も、悪くなる可能性も秘めているからです。もしくは、前向きな気持ちだけ、不安な気持ちだけに偏ってしまうこともあります。逆方向への可能性、備えがなければ心が乱れる原因にもなります。心が乱れれば、行動も乱れ、身体も乱れる悪循環となります。心と身体は自然と整えようとする能力もありますが、人は...
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祈る時間(鐘と木魚の音)

寺院センターのYouTubeチャンネル「心と身体を整える」で公開している動画の中では1番多い再生数になっている動画です(2025年12月現在)。動画を利用して供養や祈願の気持ちを整えることが出来ます。気持ちが落ち着いたら10分、15分、30分といったところで止めて良いと思います。他の使い方として、鐘と木魚の音が一定間隔で鳴っているので、お経や真言、念仏、唱題、マントラ、等々を合わせて読むのにも適しています。約55分間の動画なので、どのようなお経にも対応していると思います。鐘と木魚の音を聞いているとどこにいてもお寺にいる環境を再現してくれます。
中島法雄

供養依頼のページをリニューアルしました

供養依頼のページは今回のリニューアルに向けて一時的に停止していましたが、この度、再開いたしました。寺院センターの活動の象徴的なページなので現代に合った内容に出来たと自負しています。祈願や布薩の依頼ページも見直しが終われば再開していければと準備中です。戒名授与や各種オンライン証書のページも見直しが終わり次第、再開していきます。供養依頼、法要依頼の受付をお休みさせてもらい、改めて感じたのは、命日だからお坊さん呼ばないととか、年回忌だから親戚呼ばないととか、仏事って形式的な部分が強いんです。もっと、個人的な気持ちのサポートができないものかと試行錯誤しました。供養する気持ちをサポートすることがテーマな...
法要サポート

供養依頼(1ヶ月、もしくは、1年間、毎日供養)

供養(対象者は故人)亡くなった家族や知人に気持ちを向ける時、人は生きていたその人が今いないことの悲しみから、頭では生きていないと分かっていても、それを認めたくない心との乖離が生まれることがあります。人の脳はそのような仕組みを持っているようです。心が乱れると行動も乱れ、身体も乱れる悪循環となります。心と身体は自然と整えようとする能力もありますが、人は儀礼によって心と身体を整える文化も伝えてきました。亡くなった身近な家族や知人への供養です。自分の心の中で整理する場合もあれば、家の仏壇や墓石、想い出の場所で亡くなった人への想いと向き合って心を整理するのも供養だと思います。日本には伝統的に仏教で命日や...
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仏教三大聖木(無憂樹・菩提樹・沙羅双樹)

仏教三大聖木とは、ブッダ誕生の花である無憂樹(むゆうじゅ)、ブッダ悟りの木である菩提樹(ぼだいじゅ)、ブッダ入滅(にゅうめつ)の木である沙羅双樹(さらそうじゅ)のことをさします。<< 戻る
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七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)

諸悪莫作 (しょあくまくさ)   諸の悪を作すこと莫れ衆善奉行 (しゅぜんぶぎょう) 衆の善を奉行せよ自浄其意 (じじょうごい)    自ら其の意を浄うせよ是諸仏教 (ぜしょぶっきょう) 是れ諸仏の教えなり諸々の悪いことをせずに、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏たちの教えである。これは七仏通誡偈と呼ばれるものです。過去七仏が共通して教えてきたことを、この短い詩(韻文)の中につめています。七仏とは毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)...
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無我(むが)

”私”と認識されるものには永遠なる実体がないことを無我と言います。全ての物事に実体がないことを諸法無我と言います。常に変化する世界で、例えば、私の細胞は常に生き死にしています。水分を飲んで、食事して栄養は吸収し排出されます。適度な温度、適度な空気がなければ生きられません。私の実体はどこからどこまででしょうか?それらの周りの環境なしでは”私”は生きることが出来ません。仏教は約2500年前にインドでブッダ(お釈迦様)によりはじまりました。インドで”我”とは「アートマン」のことです。アートマンとは、輪廻の主体と考えられていてます(仏教の教えではありません)。例えば、前世は鳥であったが、今世は人間に生...
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苦(く)

仏教で言うところの「苦」は、思い通りにならないということです。現世では生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたものです。「一切皆苦」「四苦八苦」「苦集滅道」という言葉にも「苦」が入っていますが、同じ意味で使われています。この「苦」は他の仏教経典と同じく中国において「苦」と漢訳されたわけですが、もともとのインドではパーリ語でドゥッカ(dukkha)、サンスクリット語でドゥフカ(duḥkha)という言葉でした。思い通りにならない、空しい、不満、不安定、苦しい、という意味がありました。現代よく使う”苦”は、何かを食べて苦いとか、堪え難い...
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恒河沙(ごうがしゃ)

恒河沙(ごうがしゃ)はサンスクリット語「ガンガー(गंगा、Gaṅgā)」に相当する音写です。恒河沙とはガンジス川にある無数の砂の意味であり、もともと無限の数量の単位、例えとして仏典で用いられていました。日本でも平安時代には非常に大きな数を表す概念として、中国から仏典と共に「恒河沙」という語が伝えられていたようです。平安時代後期に成立した説話集である『今昔物語』に、「数え切れないくらい多くの国」の例えで「無量無辺不可思議那由他恒河沙の国土を過ぎ行きて」といった用例が見られます。<< 戻る
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刹那(せつな)

刹那(せつな)はサンスクリット語「クシャナ(ksana)」に相当する音写で、漢訳では「念」と表されています。刹那は仏教の時間の概念の1つで、きわめて短い時間、瞬間を意味し、最も短い時間の単位です。その長さについては、一弾指(いちだんし、指を1回弾く)する間に65刹那あるという説や、75分の1秒が一刹那に相当するという説などの諸説があります。もともと「刹那という極めて短い時間を大切に生きよ」という意味の教えでした。また、この世の存在物は実体を伴ってあるように見えるけれど、実際には一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないことを「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といいます。また、上記の画像のように、...
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魚鼓(ぎょく)

「魚鼓(ぎょく)」は「ほう(ぎょほう:ほうは「木」へんに「邦」)」とも言われ、仏具の一種、あるいは打楽器の一種として使われています。中国では北宋(960~1127年)の頃に魚形のものが現れていたようです。上の写真の中央部に色が変わっている所がありますが、そこが叩く場所で、「ポッ、ポッ」「ポク、ポク」といった音が鳴ります。形は横に長く、魚の形をそのまま形どった魚鼓と木魚とのルーツは同じと考えられています。現在でも曹洞宗や臨済宗などの寺院などで僧堂や庫院につるし、衆を集めるための鳴物として使われています。<< 戻る
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スジャータの乳粥供養 – ブッダが悟りを得たときの供養

(乳粥供養の場に建つスジャータ寺院がある祠には、スジャータと召使のプンナ、厳しい苦行を終えたばかりのお釈迦様の像が白い牛の像と一緒に祀られています)スジャータとは、ブッダ(お釈迦様)が悟りを得たときの供養者として知られています。後にブッダとなるシッダッタの苦行放棄のきっかけとなり、悟りを得る直前の乳粥供養により身心ともに回復することになります。シッダッタはナイランジャラー川で沐浴を済ませた後、岸に上がり瞑想に適した場所を求め、あるガジュマル(ベンガルボダイジュ)の樹下に座り瞑想を行います。そこにたまたま現れたのが村の長者の娘スジャータです。スジャータは男の子に恵まれるよう村の聖樹(上記)に毎日...
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脚下照顧(きゃっかしょうこ)

寺院の玄関を入ると脚下照顧(きゃっかしょうこ)と書かれた単牌が置かれているのを見かけます。「自分の足元を見なさい」という意味です。玄関に置いていますから、履き物を揃えましょうということを示しています。転じて「自分の行いを見なさい」という意味になります。日本の家庭の多くは玄関で履物を脱ぎますね。それは日常の当たり前の行為です。しかし、その当たり前の行為を大切にし、より良い心に導く言葉が脚下照顧です。導くのは他の誰でもなく自分自身です。ポーンと脱ぎ飛ばした履物も誰かが直してくれるだろうと思っていてはいけないのです。自分で意識して履物を整えます。すると心も整うのです。行いと心は連動したものです。履物...
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成道会(じょうどうえ)

12月8日は仏教の開祖お釈迦様が悟りを開かれた日、つまり成道(じょうどう)の日です。釈迦族の王子であったお釈迦様の姓はゴータマ、名前をシッダッタといいました。何の不自由もない生活をしていましたが、人生の生老病死の苦しみに疑問を抱き妻子を残し出家をします。最初は真理を求めて有名な聖者について学びますが、納得がいく答えを得られませんでした。その後、ウルヴェーラの苦行林で6年間の苦行を続け、それでも真理を見いだせないので、極端な苦行では真理どころか、無駄に心や身体を傷つけるだけであると気づきました。そして、苦行を放棄し、さらなる真理へ到る方法を探すのでした。苦行していた場所から程近いネーランジャラー...
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独坐/独座(どくざ)

独坐とは、ひとりで座っていること。身を遠ざけて、奥まったところに坐すこと。孤座。・「独坐と禅定を捨てることなく、諸々の事柄について常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 69偈)<< 戻る
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愚痴(ぐち)

愚痴とは、言ってもしかたのないような不平不満を言って嘆くことです。もともとの意味は、仏の智恵に暗いこと、物事の真実を知らないこと、智恵や真実を知ろうとしないことを愚痴といいます。愚痴は、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三つの煩悩である三毒の一つです。愚痴は、インドの古語・サンスクリット語の「moha(モーハ)」が語源だとされています。モーハは、中国語に翻訳された時に、愚痴、莫訶、馬鹿などに訳されました。ですので、馬鹿という言葉も、愚痴と同じ語源です。仏教では、もっと根源的な人間の「愚かさ」を表す概念として使われています。現代の用法は少し意味が変わってきているようですが、「くどくどと愚痴を言う」「...
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喜心・老心・大心(きしん・ろうしん・だいしん)の三心(さんしん)

喜心・老心・大心の三心とは、労働する時の重要な心構えを表しています。「喜心」とは、喜んで物事に取り組む心です。例えば食事を作る役割にあるならば、食事を作ることのできる巡り合わせの因縁を感謝し、自分だけのためでなくて、他人のためになること、さらには他人の利益につながることを喜んでする。分け隔てなく物事に勉める喜悦の心を表します。「老心」とは、物をいたわる心です。父母が切々と子どもを思い、自身の寒さや熱さをかまうことなく、子どものすこやかなことを願いながら、いつくしみ育てるような親切心を表します。「大心」とは、偏りのない心です。そびえ立つ山や果てしなく広がる大海のように、高く広い思いを持ち、一方に...
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監寺(かんす)/監院(かんにん)

監寺・監院とは、都寺の次位にて寺の一切の事務を担います。六知事の一つ。・「むかし、則公監院といふ僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師とうていはく、則監寺、なんぢ我が会にありていくばくのときぞ。」(「正法眼蔵」弁道話)・「いわゆる当職は一日夜を経、先ず斎時罷、都寺監寺等の辺に就いて、翌日の斎粥の物料を打す。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)<< 戻る
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四向四果(しこうしか)

四向四果とは、初期の仏教での聖者の位を、預流(よる)、一来(いちらい)、不還(ふげん)、阿羅漢(あらかん)という四つの聖位に分けられており(四双/しそう)、その一つ一つの位について向と果がありました。向とは修行の目標として進みつつある位、また、果は到達した境地を示します。それにより八つの位に分けられることから八輩(はっぱい)、四双八輩(しそうはっぱい)ともいいます。修行の目標として進みつつある位四向(しこう)とは、預流向(よるこう)、一来向(いちらいこう)、不還向(ふげんこう)、阿羅漢向(あらかんこう)のことです。また、到達した境地を示す四果(しか)は、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、...
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無常(むじょう)

常に変化していることを無常と言います。全ての物事が常に変化していることを諸行無常と言います。これを聞いて、多くの人は「当たり前だな」と思うわけですが、私たちは同時に大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などは「変わらないでほしい」という気持ちも自然にあります。無常を前提に、後者を大切にして生きるのか、無常を無視して大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などに永遠を求めるて生きるのかは大きな違いだと思います。失う苦しみも大きいかもしれません。その他の方法として、どちらも曖昧にしておく、考えないということも出来ます。しかし、「当たり前だな」と分かっていることを隠すことは得策でしょう...
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12月の出来事/有名人の誕生日・命日

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『典座教訓』(てんぞきょうくん)

典座教訓とは、修行道場で食事を担当する役職である「典座」の心がまえを示した書です。1237年に道元禅師により、自身の中国での修行の経験を踏まえて著されました。それまで日本では注目されることなく軽視されていた典座の職を高く評価し、重要視するべきだと説いています。修行としての食事とはいかなるものであるかを示され、典座の大切さや意義を中国で出会われた老典座との逸話などをまじえ、喜びの心(喜心)・相手を思いやる心(老心)・動じない心(大心)の三心を、調理する者の心とし、素材そのものを生かす料理でなければならないと説かれています。典座教訓に著されている中国・宋での体験は、道元禅師の仏法・修行のあり方に影...