江戸時代前期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。初め名を祖休といい、後に道覚とあらためた。号も初めは了然といい、後に了翁にあらためた。
寛永20年(1643年)、了翁は陸奥国(後の陸中国)平泉の中尊寺(岩手県平泉町)を詣でたが、その際、多くの経典がすでに散逸してしまっていることを知った。特に藤原清衡奉納の宋版大蔵経の多くが失われていることを嘆き、近隣を探し回り、今日国宝の一部として知られる金銀交書(紺紙金銀交書大般若経)6巻を返納した。さらにこれ以後、散逸した経典や群書の蒐集と一切経蔵建立の運動に一生を捧げることを誓う。
承応3年(1654年)、同学の僧より明の高僧隠元隆琦が来日する話を聞いて肥前国長崎に赴き、崇福寺で道者超元に参禅したのち、同年7月、興福寺(長崎県長崎市)に滞留中の隠元を訪ね、入門を許された。
寛文5年(1665年)、長崎興福寺を開いた明の高僧黙子如定が夢枕に現れ、霊薬の製法を与えるという夢を見る。その通り薬を調整して患部に塗ると間もなく痛みは鎮まった。また、飲用すると心身爽快になったと言われる。この妙薬を人々に施せば功徳があると考えた了翁は、浅草の観世音菩薩に祈念し、籤を3度ひいて「錦袋円(きんたいえん)」と名づけた。薬は傷病に苦しむ多くの人を救ったとされる。
錦袋円は、江戸上野の不忍池のほとり(現池之端仲町)に構えられた店舗でも売られた。甥の大助に経営を任せたところ、江戸土産にまでなり、寛文10年(1670年)には金3000両を蓄えるまでに至る。「勧学里坊(勧学屋)」と名付けられた薬舗の看板は、水戸光圀の直筆の文字を左甚五郎が彫ったものともいわれており、『江戸名所図会』にも「池之端錦袋円店舗の景」が描かれている。
寛文10年(1670年)、錦袋円の売上金3000両をもとに、300両で宿願の大蔵経(天海版大蔵経6,323巻)を購入した。さらに輪王寺宮初代の守澄法親王の許可を得て、不忍池に小島(「経堂島」)を築き、そこに2階建の経堂を建てて大蔵経を納めた。
伊勢の安養寺の門前に施薬館を建てたほか、京都の泉涌寺の門前にも施薬所を設置して、5万5千袋余に及ぶ錦袋円を処方した。寛文12年(1672年)には棄児十数人の養育をはじめている。また、同年、上野寛永寺のなかに勧学寮を建立し、教学の専任となった。並立した文庫6棟には和漢の書籍を収蔵し、僧侶ばかりではなく、一般にも公開した。これは、日本初の一般公開図書館であったばかりでなく、閲覧者のなかで貧困の者や遠来の者には飯粥や宿を与えるという画期的な教育文化施設であった。
勧学寮で寮生に与えられた食事は質素なものであったが、了翁が考案したと言われる漬物が出された。大根、なす、きゅうりなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし「福神漬」と命名、巷間に広まったとされる。勧学寮では経済的に窮乏している者に対しては授業料が免除された。
貞享2年(1685年)、輪王寺の守全法親王より勧学寮権大僧都法印に任じられた。このとき了翁は、講師として当代の碩学を招きたい旨を法親王に訴えている。仁和寺の寛隆法親王の縁で高野山金剛峯寺の塔頭光台院に経蔵を設立し、鉄眼一切経(鉄眼道光の大蔵経)を納めたほか、この年より元禄7年(1694年)まで天台・真言・禅の3宗21カ寺に経蔵を寄進している。
禅宗・・・山城国萬福寺、同仏国寺、武蔵国瑞聖寺、美濃国小松寺、伊勢国円福寺、大和国法徳寺、遠江国宝林寺
天台宗・・・武蔵国寛永寺、同金讃寺、近江国延暦寺、下野国宗光寺、山城国興聖寺、上野国長楽寺、常陸国月山寺
真言宗・・・紀伊国高野山光台院、同泰雲院、同新別所、河内国延命寺、同神鳳寺、大和国東浄寺、武蔵国霊雲寺
以上21カ寺の経蔵を建立して大蔵経を安置し、その他群書や漢籍など58005巻を集蔵すべき光石院文庫も建て、これらの維持費も寄進した。
生誕 寛永7年3月18日(1630年4月29日)
命日 宝永4年5月22日(1707年6月21日)
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