594年、推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。これにより仏法僧の三宝を興隆させ、氏寺の建立が盛んになったといわれている。
594年という年代は推古2年で、初めての女性天皇である推古天皇のもと、聖徳太子はその摂政(せっしょう)として、大臣の蘇我馬子らの協力により政治を行い、その中でも仏教興隆の詔を公式に出したことで、臣下たちは「各々君親の恩のため競ひて仏舎を造る」(『日本書紀』)ようになったと記録されている。
飛鳥時代の仏教は、単なる個人救済を目的としたものではなく、国の君主であったり、家の長である親への報恩の誠を捧げて、国と家の繁栄を祈ることに重点があったと読み取れる。
仏教興隆の詔は、三宝興隆の詔、仏法興隆の詔、仏法僧興隆の詔という名称で説明される場合もある。
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