鎌倉時代の仏教の僧侶。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされます。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されました。
日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられている。1233年、12歳のとき、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)にのぼり道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。
1237年、16歳のとき道善房に就いて正式に出家得度し、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)とあらためました。1238年、鎌倉遊学へ出発し、念仏及び禅を修学しました。1242年、鎌倉遊学より清澄山へ帰還し、『戒体即身成仏』を述作します。
さらに比叡山遊学へ出発し、1245年、比叡山・定光院にて俊範法印に就学しました。1246年、三井寺へ遊学。1248年、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院へ遊学。1250年、天王寺、東寺へ遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、法華経こそが全ての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信し、清澄寺に戻ります。
1253年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と、初めてお題目を唱え立教開宗宣言をしました。このとき32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。1254年、鎌倉にて辻説法を開始します。1258年、静岡県岩本實相寺にて一切経を閲読します。
1260年5月26日、『立正安国論』を著し、同年7月16日、前執権で幕府最高の実力者の北条時頼に送りました。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府の間違った信仰にあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼離などの災いが起こると説かれています。同年8月27日、『立正安国論』建白の40日後、他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れました(松葉ヶ谷法難)。
1261年5月12日、反感を持つ者の讒言(ざんげん)により捕らえられ、伊豆へ流罪になりました(伊豆法難)。1263年2月22日、伊豆流罪赦免されます。1264年8月、故郷安房へ帰り、母の重病を治しました。同年11月11日、念仏信仰者の地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃され、弟子一人は討ち取られ、自らも眉に三寸の疵(きず)を負わされました(小松原法難)。
1271年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました(龍口法難)。同年10月28日佐渡に到着します。1272年2月、『開目抄』を述作します。1273年4月25日、『観心本尊抄』述作し、同年7月8日、大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示します。
1274年2月14日付で赦免状が出され、3月8日佐渡に届きました。3月13日に佐渡を立ち、3月26日鎌倉に帰ります。
『立正安国論』の中で予言された外国からの攻撃が、蒙古襲来というかたちで現実のものとなると、幕府は日蓮聖人の流罪を解き、鎌倉に呼び戻します。しかし、幕府が、『立正安国論』の真意を汲み取ろうとしていないことを悟ると、日蓮聖人は鎌倉を離れ、山梨にある身延山(現在の身延山久遠寺)へと身を置きます。
ここで、国の将来を見据え、法華経を受け継ぎ「南無妙法蓮華経」=お題目を広める仏弟子の教育・育成に力を注ぎました。後に、この身延山で学んだ弟子や信徒らによって、教えは全国へと広がることとなったのです。
5月17日、身延一帯の地頭である波木井実長の招きで山梨県の身延山に入り、身延山久遠寺を開山しました。1275年6月『撰時抄』を述作します。1276年、師の道善房が入滅し、7月21日、墓前に『報恩抄』を棒読しました。1281年11月、久遠寺に十間四面の大堂が建立されました。
1282年9月8日、常陸へ湯治に向かうため下山し、途中、養体が悪化し、9月18日に武蔵国池上宗仲公の邸(東京都大田区池上 = 現在の池上本門寺)に留まることになりました。10月8日、六老僧を定めます。10月13日辰の刻(午前8時)、61歳で入滅されました。
生誕 承久4年(1222年)2月16日
命日 弘安5年(1282年)10月13日
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