飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。
蘇我入鹿は大和朝廷の実質の最高権力者としての地位を固めたが、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、とどめを刺されたという。(乙巳の変)
生誕 推古天皇19年(611年)
命日 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)
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