日蓮系宗派の出来事

年表

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寺院センターが情報収集した寺院など仏教年表をまとめています。宗派、出来事と時代のタグで分け、投稿日を出来事に合わせていますが、月日が分からない多くの場合で「1月1日」に設定しています。飛鳥時代, 奈良時代, 平安時代, 鎌倉時代, 室町時代, 安土桃山時代, 江戸時代, 明治時代, 大正時代, 昭和時代, 平成時代, 令和時代, 曹洞宗の出来事, 浄土宗の出来事, 浄土真宗の出来事, 天台宗の出来事, 真言宗の出来事, 臨済宗の出来事, 日蓮系宗派の出来事, 諸宗派の出来事, 世界の出来事(仏教),世界の出来事(仏教以外),仏教(インド)の出来事,仏教(中国)の出来事,日本の出来事(仏教以外)...
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京浜地区南部の空襲によって池上本門寺大伽藍のほとんどを焼失

1945年4月15 日、京浜地区南部の空襲によって、池上本門寺大伽藍と厳重に格護されてきた御霊宝のほとんどを失いました。しかし、猛火のなか身命を賭した寺僧の活動によって、日蓮聖人御真蹟を中心とする特に重要な御霊宝は焼失を免れ今に伝わっています。<< 戻る
便り

身延別院-東京都中央区

・身延別院 日蓮宗 東京都中央区日本橋小伝馬町3-2明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。(リンク先より) << 戻る
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大教院開院

1873(明治六)年1月、大教院開院。明治維新当時、新政府は天皇を中心とした神道思想(大教(だいきょう))によって国をまとめあげようと考えました。これを人々に広めるために教導職(きょうどうしょく)が設けられ、全ての神官・僧侶等が兼任させられました。神仏合同による布教が求められ、以後、教導職でない人は、一切の宗教的布教活動は出来ないことになったのです。そして、教導職をまとめたり、大教を広めるための指導機関として、東京に設けられたのが「大教院(だいきょういん)」です。更に、その下部機関として各府県に設けられたのが「中教院(ちゅうきょういん)」や「小教院(しょうきょういん)」です。<< 戻る
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宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止

1871(明治四)年4月、戸籍法改正され宗旨人別帳、寺請檀家制度廃止。<< 戻る
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神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく)

1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る
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清正公寺-東京都中央区

・清正公寺 日蓮宗 東京都中央区日本橋浜町2-59-2この場所は江戸時代には細川藩の下屋敷があったところで、文久元年(1861年)、細川斎護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請して創建しました。加藤清正を祀り、現在の堂宇は昭和34年(1959年)に再建されたものです。都営地下鉄新宿線浜町駅の上に位置する浜町公園内の一角にあります。 << 戻る
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東陽院-東京都中央区

・東陽院 日蓮宗 東京都中央区勝どき4-12-9慶安元年(1648年)、浄源院日隆によって開山されました。もとは浅草永住町(現・東京都台東区東上野)にあった善立寺(現在は足立区に移転)の塔頭でしたが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失したため、善立寺から分離独立して、現在地に移転しました。江戸時代の戯作者で『東海道中膝栗毛』の作者として知られている十返舎一九の墓碑があります。 << 戻る
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宗門改と寺請檀家制度を実施

1640(寛永一七)年、江戸幕府、宗門改役を設置し、宗門改と寺請檀家制度が実施される。宗旨人別帳作成。<< 戻る
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学成寺 開創

開創  天正7年開山  成就院日賢上人学成寺は、天正7年(1579 年)邑美郡馬場町(今の鳥取市馬場町)に建立されました。<< 戻る
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日什上人、入滅

1392年(明徳3年)2月28日、日什上人は読経唱題の中、入滅されました。御廟所は会津若松市の本山妙国寺にあります。<< 戻る
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日什上人、法華経弘通に邁進

1381年(永徳元年)、上洛して第一回の奏聞をし、洛中弘通の綸旨を賜り二位の僧都に叙せられました。翌年、鎌倉にて関東管領足利氏満に宗義を直訴しました。その時、同地埋橋に本興寺を創建しました。同年上洛し第二回の奏聞をしました。<< 戻る
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日什上人、「開目抄」と「如説修行抄」を読み日蓮宗門下に

天授5(1379)年〔北朝康暦元年〕66歳の時、日蓮大聖人の「開目抄」と「如説修行抄」を読んで永年の疑問を解決することになり、名を「日什」と改め、翌67歳の時、日蓮宗の門に下り千葉下総真間弘法寺に帰伏して、真間能化となりました。しかし、感ずるところあって「経巻相承直授日蓮」と称しました。それは門下のどこにも従わず、仏祖及び宗祖の御意志に沿って法華経の弘通の大願に邁進することでした。<< 戻る
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日什上人、比叡山を下り東光寺の住職に

1372年(応安5年)、会津領主の蘆名直盛の招きにより故郷会津に帰り、現・羽黒山湯上神社の別当寺・羽黒山東光寺(廃寺)の住職となり、東北一帯の学僧に天台教学を講じました。<< 戻る
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日什上人、比叡山での修行

日什上人は15歳の時相次いで両親を亡くされ、1333年(正慶2年)19歳の時に出家して比叡山横川の慈遍僧正(吉田兼好の兄)のもとに入室・出家し、名を玄妙と改めて勉学修行を行いました。1352年(文和元年)38歳の時、比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)となった。<< 戻る
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日像上人 妙顕寺を創建

元亨元年(1321)、日像上人によって妙顕寺は創建されました。洛中における日蓮宗最初の寺院です。日像上人は追放や迫害といった数々の法難を乗り越え、粘り強い布教を続け、後醍醐天皇より法華経布教の勅旨を賜り、宗門の教線拡大の礎を築きました。<< 戻る
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日蓮聖人御尊像の造立

正応元年(1288)、池上本門寺大堂に奉安されている日蓮聖人御尊像(重要文化財)が、六老僧の1 人日持聖人らによって造立される。日朗聖人は、自らが布教活動の拠点としていた鎌倉比企谷の長興山妙本寺と池上本門寺の貫首職を兼任した(両山一首制、昭和16 年まで続く)。<< 戻る
人物

日蓮聖人(にちれんしょうにん)

鎌倉時代の仏教の僧侶。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされます。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されました。日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられている。1233年、12歳のとき、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)にのぼり道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。1237年、16歳のとき...
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日蓮聖人、身延山久遠寺を開山

文永11(1274)年2月14日付で赦免状が出され、3月8日佐渡に届きました。3月13日に佐渡を立ち、3月26日鎌倉に帰ります。5月17日、身延一帯の地頭である波木井実長の招きで山梨県の身延山に入り、身延山久遠寺を開山しました。建治元(1275)年6月『撰時抄』を述作します。建治2(1276)年、師の道善房が入滅し、7月21日、墓前に『報恩抄』を棒読しました。弘安4(1281)年11月、久遠寺に十間四面の大堂が建立されました。<< 戻る
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日蓮聖人、佐渡での活動

文永8(1271)年10月28日、日蓮聖人は佐渡に到着します。文永9(1272)年2月、『開目抄』を述作します。文永10(1273)年4月25日、『観心本尊抄』述作し、同年7月8日、大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示します。<< 戻る
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龍口法難

文永8(1271)年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました。<< 戻る
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小松原法難

文永元(1264)年11月11日、念仏信仰者の地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に日蓮聖人は襲撃され、弟子一人は討ち取られ、自らも眉に三寸の疵(きず)を負わされました。<< 戻る
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伊豆法難

弘長元(1261)年5月12日、反感を持つ者の讒言(ざんげん)により日蓮聖人は捕らえられ、伊豆へ流罪になりました。弘長3(1263)年2月22日、伊豆流罪赦免されます。<< 戻る
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松葉ヶ谷法難

文応元(1260)年7月16日、前執権で幕府最高の実力者の北条時頼に日蓮聖人は『立正安国論』を送りました。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府の間違った信仰にあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼離などの災いが起こると説かれています。同年8月27日、『立正安国論』建白の40日後、他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れました。<< 戻る
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日蓮聖人『立正安国論』を著す

文応元(1260)年5月26日、『立正安国論』を著す。1巻。日蓮が5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)に献じたもので、法華経のみが正法(しょうぼう)であり、これを信仰して国をおさめ民衆を救済すべきことを警告し、これにより政治を行わないと天災地変がおこり、外国の侵略を受けると説といている。<< 戻る
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日蓮聖人 一切経を閲読

正嘉2(1258)年、静岡県岩本実相寺にて一切経を閲読。<< 戻る
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日蓮聖人 鎌倉での辻説法

建長6(1254)年、鎌倉にて辻説法を開始。<< 戻る
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日蓮聖人 立教開宗

建長5(1253)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と、初めてお題目を唱え立教開宗宣言をしました。このとき32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。<< 戻る
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日蓮聖人 比叡山~各地に遊学

寛元3(1245)年、比叡山・定光院にて俊範法印に就学しました。寛元4(1246)年、三井寺へ遊学。宝治2(1248)年、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院へ遊学。建長2(1250)年、天王寺、東寺へ遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、法華経こそが全ての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信し、清澄寺に戻ります。<< 戻る
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日蓮聖人 鎌倉遊学

暦仁元(1238)年、鎌倉遊学へ出発し、念仏及び禅を修学しました。仁治3(1242)年、鎌倉遊学より清澄山へ帰還し、『戒体即身成仏』を述作します。<< 戻る
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日蓮聖人の得度

嘉禎3(1237)年、日蓮聖人は道善房のもとで正式に出家得度し、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)とあらためました。<< 戻る
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日蓮聖人、仏門へ

天福元(1233)年、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(後に日蓮宗)の道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。<< 戻る