戒名

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東源寺-千葉県我孫子市

・東源寺 曹洞宗 千葉県我孫子市柴崎170天文9年(1540)小田原城主 北条氏康公(大聖寺殿東陽宗岱公居士)によって開かれたお寺です。公は氏綱の嫡男として永正12年(1515)に誕生 永禄4年第3代として家督を継ぎ,民衆の収攪に務められ、諸寺に安堵を与え、元亀2年(1571)享年56歳で城中にて病死されました。(リンク先より) << 戻る
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柳徳寺-宮城県栗原市

・柳徳寺 曹洞宗 宮城県栗原市若柳字川南町浦96大永三年の開山にして、柳徳寺殿青含緑葉大居士の開基なり、実に500年近い歴史を持つ。三世天山存長和尚代に新山(栗原市若柳新山地区)より現在の地に移転すと伝えられる。依って中興の祖となったものと思われる。(リンク先より)※大永三年 1523年 << 戻る
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六角高頼(ろっかくたかより)

室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。生誕 命日 永正17年10月29日(1520年12月9日)竜光院殿嘉山宗椿<< 戻る
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北条早雲(ほうじょうそううん)

北条早雲こと伊勢宗瑞は、室町時代中後期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当...
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足利義政(あしかがよしまさ)

は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。なお、銀閣寺(慈照寺)の由来は義政の戒名「慈照院」から名付けられています。生誕 永享8年1月2日(1436年1月20日)命日 延徳2年1月7日(1490年1月27日)慈照院殿准三宮贈一品喜山道慶大禅定門<< 戻る
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足利義尚(あしかがよしひさ)

室町時代後期の室町幕府第9代将軍。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に義煕と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職を巡る対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。生誕 寛正6年11月23日(1465年12月11日)命日 長享3年3月26日(1489年4月26日)常徳院悦山道治<< 戻る
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太田道灌(おおたどうかん)

室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。生誕 永享4年(1432年)命日 文明18年7月26日(1486年8月25日)大慈寺殿心円道灌大居士香月院殿春苑静勝道灌大居士<< 戻る
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了賢寺-和歌山県海南市

・了賢寺 浄土真宗本願寺派 和歌山県海南市冷水浦483文明8年(1476年)3月に紀伊国阿間郡(きいのくに あまのこうり)清水浦の住人、喜六太夫(きろくだゆう)が熊野街道の藤白峠の『御所の芝』(別名『後世の芝』)にて、熊野参詣の途中の本願寺第8代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人に出会い、上人より直々に「他力念仏の教え」を教導いただく。 上人熊野よりの帰路の途中、喜六太夫の案内により清水浦に立ち寄られ、太夫の自宅にて更に教えを受け、太夫は浄土真宗のみ教えに帰依し、上人の直弟子となって、「釋了賢(りょうけん)」という法名を頂きました。その後、自宅に上人直筆の「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の六字名号(ろ...
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細川勝元(ほそかわかつもと)

室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。細川京兆家11代当主。応仁の乱の東軍総大将として知られている。生誕 永享2年(1430年)命日 文明5年5月11日(1473年6月6日)龍安寺殿宗寶仁榮大居士<< 戻る
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山名宗全(やまなそうぜん/持豊/もちとよ)

室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。生誕 応永11年5月29日(1404年7月6日)命日 文明5年3月18日(1473年4月15日)達碧院殿最高宗峯大居士<< 戻る
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足利義満(あしかがよしみつ)

室町時代前期の室町幕府第3代将軍である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室の紀良子。南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。生誕 正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)命日 応永15年5月6日(1408年5月31日)鹿苑院天山道義<< 戻る
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細川頼之(ほそかわよりゆき)

南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府管領。官位は従四位下、始め武蔵守、相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。 観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。生誕 元徳元年(1329年)命日 元中9年/明徳3年3月2日(1392年3月25日)永泰院殿桂巌常久大居士<< 戻る
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足利尊氏(あしかがたかうじ)

鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将。鎌倉幕府の御家人。河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)、足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。なお、戒名における院殿号のはじまりは足利尊氏にはじまるといわれている。上皇や女院など皇族に相当する院号を避けて等持院殿という諡号を用いたことから、院殿号が戒名の一種として用いられるようになった。生誕 嘉元3年7月27日(ユリウス暦1305年8月18日、グレゴ...
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足利直義(あしかがただよし)

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 室町幕府草創期の実質的な幕政の最高指導者。中先代の乱では後醍醐天皇の子息で前征夷大将軍の護良親王を殺害した。実兄・足利尊氏との権力闘争に敗れ東国に逃れたが、鎌倉に幽閉され毒殺ともされる急死を遂げた(観応の擾乱)。生誕 徳治元年(1306年)命日 正平7年2月26日(1352年3月12日)大休寺古山恵源<< 戻る
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高師直(こうのもろなお)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階師直(たかしな の もろなお)。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事、建武政権雑訴決断所三番奉行人・武者所および窪所寄人、北朝武蔵守、室町幕府初代および第三代執事(室町幕府管領の前身)・上総国守護・武蔵国守護・引付頭人。生誕 命日 正平6年/観応2年2月26日(1351年3月24日)真如寺殿道常大禅定門<< 戻る
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新田義貞(にったよしさだ)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇の綸旨(蔵人が天皇の命を受けて発給した文書)を受けた義貞は、幕府が派遣した楠木正成追討軍を密かに抜け出て帰国しました。義貞は、幕府徴税使を斬って討幕の決意を固め、5月8日、生品明神(新田町市野井)の社前に討幕の兵を挙げ、鎌倉攻めを開始しました。義貞軍は、小手指原(埼玉県所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(東京都府中市)での戦いを経て、同月18日、兵を巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の三手に分けて鎌倉市中攻撃を始めましたが、幕府の守りも固く、攻防一進一退を繰り返す中...
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楠木正成(くすのきまさしげ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らと共に天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家と共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄...
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京極為兼(きょうごくためかね)

鎌倉時代後期の公卿・歌人。名前の読みを「ためかぬ」とする説もある。 生涯. 京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世と共に祖父為家から和歌を学ぶ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる。生誕 建長6年(1254年)命日 元徳4年/元弘2年3月21日(1332年4月16日)<< 戻る
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北条貞時(ほうじょうさだとき)

鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。生誕 文永8年12月12日(1272年1月14日)命日 応長元年10月26日(1311年12月6日)最勝園寺殿覚賢<< 戻る
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松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。生誕 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)命日 寛喜2年12月28日(1231年2月1日)菩提院松殿中山基房大居士<< 戻る
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島津忠久(しまづただひさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とされる(『山槐記』)。島津忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。生誕 命日 嘉禄3年6月18日(1227年8月1日)浄光明寺殿 得佛道阿弥陀佛<< 戻る
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鴨長明(かものちょうめい/ながあきら)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。俗名は同じだが「読み」がかも の ながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つである。他に同時期に書かれた歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』(1216年以前成立)、歌集として『鴨長明集』(養和元年(1181年))といった作品がある。『千載和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に25首が入集している。生誕 久寿2年(1155年)命日 建保4年閏6月10日(1216年7月26日)<< 戻る
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了明寺-新潟県長岡市

・了明寺 浄土真宗本願寺派 新潟県長岡市滝谷町1219了明寺の起源は真言宗であり、長承年間(1132~1140)、沼垂郡沼垂村に威徳院として建設されました。承元4年(1210)、親鸞聖人38歳の時、富山へお立ち寄りになった際、住職権大僧都直法院(俗名岩崎七郎左ヱ門)は、他力易行(お念仏の教え)の法を聞き弟子となり、法名を了明房釋真観と授けられ、紺紙金泥六字名号(南無阿弥陀仏)を書き与えられました。(リンク先より) << 戻る
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源頼朝(みなもとのよりとも)

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。生誕 久安3年4月8日(ユリウス暦1147年5月9日、先発グレゴリオ暦1147年5月16日)命日 建久10年1月13日(ユリウ...
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源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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源義仲(みなもとのよしなか)

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。生誕 久寿元年(1154年)命日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)徳音院義山宣公<< 戻る
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平清盛(たいらのきよもり)

平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士として初の太政大臣。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。生誕 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、グレゴリオ暦11...
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長寿院-千葉県成田市

・長寿院 曹洞宗 千葉県成田市名古屋346人皇七十四代鳥羽天皇元永2(1119)年 天台律師作蓮により開基。永正17(1520)年 祥鳳院第二世心伝永直が曹洞宗の寺院として開山。開基は春岩藤公大禅定門と伝えられる。本尊は聖観世音菩薩。平安時代の佛師定朝の作と伝えられる。(リンク先より) << 戻る
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法音寺-山形県米沢市

・法音寺 真言宗豊山派 山形県米沢市御廟1-5-32法音寺は、山号を八海山といい、真言宗豊山派に所属し、本山は奈良県の長谷寺であります。当寺は、もと越後の国南魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現在の新潟県六日町)に、聖武天皇の勅命により、天平9年(737)年に総建された寺です。 当寺所蔵の八海山縁起によれば、藤原政照卿が、天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死、その菩提を弔うため、行基菩薩が、勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まりとあります。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。(リンク先より)<< 戻る