東京都台東区

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明順寺-東京都台東区

・明順寺 真宗大谷派 東京都台東区東上野6丁目10-12真宗大谷派 明順寺住職 もっと仏教やお寺のことを伝えたい HPで実験中 ゴルフに行きたい
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延寿寺-東京都台東区

・足病守護の寺・日荷堂 延寿寺 日蓮宗 東京都台東区谷中1-7-36時は明暦二(1656)年、第四代将軍徳川家綱の時代。延壽寺は覚性院日勤(かくしょういんにちごん)上人によって開かれました。開創当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じく谷中にある瑞輪寺との本末関係にありましたが、それもその後解消され、宝永年間(1704~1710)に身延山久遠寺の直末となります。(リンク先より) << 戻る
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厳念寺-東京都台東区

・厳念寺 浄土真宗 東京都台東区寿1-11-2厳念寺は建長5(1253)年、武州足立郡槙村に真言宗の「証誠山 成就院 護念寺」として創建されました。開基は遊琳法印という僧侶でしたが、覚如上人の影響を受けて「覚了」という法名をいただき、浄土真宗に改宗しました。(リンク先より) << 戻る
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東陽院-東京都中央区

・東陽院 日蓮宗 東京都中央区勝どき4-12-9慶安元年(1648年)、浄源院日隆によって開山されました。もとは浅草永住町(現・東京都台東区東上野)にあった善立寺(現在は足立区に移転)の塔頭でしたが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼失したため、善立寺から分離独立して、現在地に移転しました。江戸時代の戯作者で『東海道中膝栗毛』の作者として知られている十返舎一九の墓碑があります。 << 戻る
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天竜院-東京都台東区

天竜院 臨済宗妙心寺派 東京都台東区谷中4-4-33寛永7年(1630)に梅嵓(ばいがん)が創建しました。江戸時代には正月に梅の花を幕府に献上していた寺院です。蘭法医の伊藤玄朴(いとうげんぱく)の墓などがあります。天龍院とも表記。 << 戻る
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長國寺-東京都台東区

・浅草 酉の寺・鷲在山長國寺 法華宗(本門流) 東京都台東区千束3-19-6当山は江戸時代初期、寛永七年(1630年)に石田三成の遺子と言われる、 大本山-長國山鷲山寺(じゅせんじ)第13世・日乾(にちけん)上人によって、鳥越町(とりこえちょう)に 開山されました。山号を鷲在山(じゅざいさん)寺号を長國寺(ちょうこくじ)と称します。(リンク先より) << 戻る
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西徳寺-東京都台東区

・西徳寺 真宗佛光寺派 東京都台東区竜泉1-20-19西徳寺は寛永五年五月、当時新興都市であった江戸における佛光寺門徒の聞法道場として、 金助町(現在お茶の水に近い本郷近辺)に建立された。徳川幕府三代家光の時に当たる。初代の住職は新潟県寺泊の名刹「聖徳寺」住職の次男、釈善如法師が本山の命を受けて就任している。ところが建立されてからわずか五十年の間に三回の火災に見舞われてしまう。この三回の火災の中には八百屋お七 で有名な「振り袖火事」も含まれているが、そのたびごとの再建の為、すっかり疲弊してしまう。(リンク先より)※寛永五年 1628年 << 戻る
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寛永寺-東京都台東区

・寛永寺 天台宗 東京都台東区上野桜木1-14-11寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。 後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となったのです。しかし幕末の上野戦争により、敷地の大部分が上野公園となりました。また関東大震災や太平洋戦争の被害もありましたが、戦後は新たに霊園を造営し一般のお檀家さまを受け入れるなど、...
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緑泉寺-東京都台東区

・浅草・湯島山 緑泉寺 浄土真宗東本願寺派 東京都台東区西浅草1-8-5当山は、初代覺春法師が越前の国より江戸に下り、元和元年(1615年)本郷湯島(現在の文京区湯島)に湯島山緑泉寺として興したことによりはじまりました。しかし明暦3年正月、俗に言う振袖火事により類焼、当山もことごとく焼失しました。その後浅草に遷り、今日まで連綿と法燈を継いでまいりました。(リンク先より) << 戻る
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浅草寺-東京都台東区

・あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト 聖観音宗 東京都台東区浅草2-3-1寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。 土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつく...