京都府京都市左京区

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瑠璃光院-京都府京都市左京区

・瑠璃光院 浄土真宗 京都府京都市左京区上高野東山55番地本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと記録に著され、明治の元勲三条実美公は、当時の庵に「喜鶴亭」と名付けて直筆の命名額を下されています。(瑠璃光院に現存)(リンク先より) << 戻る
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安楽寺-京都府京都市左京区

・住蓮山安楽寺 単立 京都府京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町21住蓮山安楽寺は、京都左京区鹿ヶ谷にあります。法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人を開基とします。この開山両上人が、現在地より東1キロメートルあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点を持たれたのがこの寺のはじまりです。 山門前の石柱には、「浄土礼讃根元地」と刻まれています。開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。(リンク先より)<< 戻る
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詩仙堂(丈山寺)-京都府京都市左京区

・詩仙堂 丈山寺 曹洞宗 京都府京都市左京区一乗寺門口町27詩仙堂の御本尊は、馬郎婦観音(めろうふかんのん)です。 所願成就・学業成就に御利益があると言われています。 馬郎婦観音の言い伝えは、唐の時代、憲宗元和4年(809年)。今から1200年以上前の中国、唐の時代にまで遡ります。(リンク先より) << 戻る
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恵光寺-京都府京都市左京区

・慈雲山 恵光寺のホームページ 浄土宗西山禅林寺派 京都府京都市左京区静市市原町1142恵光寺は、京都は洛北の山裾(やますそ)・市原にあります。市原は源義経が幼少時代に過ごした鞍馬山、あるいは大原行幸で有名な静原や大原の手前にある里です。今から1050年ほど前の平安時代に、智空慶寿法尼(ちくうけいじゅほうに)という尼僧さまが市原の里に草庵を開いたのがはじまりで、開山上人の名前をとって「慶寿庵(けいじゅいあん)」と名づけられました。(リンク先より) << 戻る
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圓光寺-京都府京都市左京区

・圓光寺 臨済宗南禅寺派 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13慶長6年(1601)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許した。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。当寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえよう。(リンク先より) << 戻る
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大蓮寺-京都府京都市左京区

・大蓮寺 浄土宗 京都府京都市左京区西寺町二条下る正往寺町457名称 引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ) 開基 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の年です 専蓮社深誉和尚により開山(リンク先より) << 戻る
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慈照寺(銀閣寺)-京都府京都市左京区

・慈照寺(銀閣寺) 臨済宗相国寺派 京都府京都市左京区銀閣寺町21489年、足利義政が京都東山に銀閣寺を建てる。東山文化。 << 戻る
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南禅寺-京都府京都市左京区

・南禅寺 臨済宗南禅寺派 京都府京都市左京区南禅寺福地町正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。(リンク先より) << 戻る
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禅林寺(永観堂)-京都府京都市左京区

・禅林寺(永観堂) 浄土宗西山禅林寺派 京都府京都市左京区永観堂町48仁寿 三 853 十月、真紹、藤原関雄の故居を買い取り、禅林寺の敷地に当てる。貞観 五 863 九月、清和天皇より鎮護国家の道場として勅額を賜い、「禅林寺」と名づける。(リンク先より) << 戻る
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鞍馬寺-京都府京都市左京区

・鞍馬寺 鞍馬弘教 京都府京都市左京区鞍馬本町1074『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。 桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあった...
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寂光院-京都府京都市左京区

・寂光院 天台宗 京都府京都市左京区大原草生町676寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。(リンク先より) << 戻る