
大晦日だろうが、新年だろうが、お盆、お彼岸、誰かが産まれても、誰かが亡くなっても、どんな時でも、いつものように瞑想をして、いつものように供養をして、いつものように祈願をして、いつものようにお釈迦様から伝わって来た仏道を行ずるのが僧侶の務めです。
仏道を行ずるというのは、今列挙したような仏事だけではありません。私は大晦日も元日も早朝から福祉施設の厨房で調理師として勤務しています。見た目は一般人かもしれませんが、心も身体も仏道を行じています。
包丁を切る動作も、食品を盛り付ける動作も、食器を洗う動作も、同僚との接し方も、施設の方との接し方も、仏道を行じる他ありません。
着物を着て、お袈裟を付けて、お寺に住んでいて、お経を読んでいれば、仏道を行じているように思ってもらえますが、着物を着ず、袈裟を付けず、お寺に住まず、お経を読んでいない人をどのように仏道を行ずる人だと判断できるでしょうか。
どんな時でも、着物を着ているように佇み、お袈裟を付けているように謙虚に振る舞い、お寺に住んでいるように規律正しく、お経を読んでいるように優しい言葉で話していることが仏道を行ずる人だと思い、実践しようとしています。
瞑想は心と身体をリセットするのに必要であり、供養は私とつながる生命を慈しむのに欠かせない行為であり、祈願はすべての生命の希望です。お釈迦様から伝わって来た仏道は私の歩む道。
2025年の大晦日をこの文章を読んでいただいているあなたと迎えられたことに感謝して、今年を終えようと思います。どうぞ、よいお年をお迎えください。合掌