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渋沢栄一(しぶさわえいいち)

武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。日本の近代資本主義の父。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な500もの会社の設立・経営に関わる。生誕 天保11年2月13日〈1840年3月16日〉命日 昭和6年〈1931年〉11月11日泰徳院殿仁智義譲青淵大居士<< 戻る
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山川健次郎(やまかわけんじろう)

明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。生誕 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)命日 1931年(昭和6年)6月26日希不踰院殿慎誉平久大居士<< 戻る
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鈴木三郎助(すずきさぶろうすけ)- 2代

実業家、味の素の創設者。神奈川県出身。生誕 1868年1月21日(慶応3年12月27日)命日 1931年3月29日<< 戻る
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内村鑑三(うちむらかんぞう)

キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。生誕 万延2年2月13日(1861年3月26日)命日 昭和5年(1930年)3月28日<< 戻る
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金子みすゞ(かねこみすず)

大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴り、そのうち100あまりの詩が雑誌に掲載されたとされる。代表作『私と小鳥と鈴と』『大漁』など多数。生誕 1903年(明治36年)4月11日命日 1930年(昭和5年)3月10日<< 戻る
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岸田劉生(きしだりゅうせい)

大正から昭和初期の洋画家。麗子像、住吉詣、道路と土手と塀など多数。生誕 1891年6月23日命日 1929年12月20日<< 戻る
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津田梅子(つだうめこ)

教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英學塾創立者。初名はうめで、明治35年に漢字表記に改めて「梅子」とした。生誕 元治元年12月3日(1864年12月31日)命日 昭和4年(1929年)8月16日<< 戻る
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若山牧水(わかやまぼくすい)

戦前日本の歌人。代表作『別離』(1910年)デビュー作『海の声』(1908年)生誕 1885年(明治18年)8月24日命日 1928年(昭和3年)9月17日<< 戻る
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野口英世(のぐちひでよ)

医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士、理学博士。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。福島県耶麻郡三ッ和村出身。生誕 1876年(明治9年)11月9日命日 1928年(昭和3年)5月21日大仁院殿済民英世居士<< 戻る
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芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)

小説家。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。生誕 1892年〈明治25年〉3月1日命日 1927年〈昭和2年〉7月24日懿文院龍之介日崇居士<< 戻る
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黒田清輝(くろだせいき)

洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。通称は新太郎。名の清輝は、本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。 教え子からは「メートル」とフランス語で呼ばれた。 東京美術学校教授、帝国美術院院長、貴族院議員などを歴任した。生誕 1866年8月9日命日 1924年7月15日<< 戻る
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大森房吉(おおもりふさきち)

地震学者。日本における地震学の創始者のひとり。初期微動継続時間から震央を求める大森公式,大森式地震計などを考案した。生誕 1868年10月30日(明治元年9月15日)命日 1923年11月18日<< 戻る
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高峰譲吉(たかみねじょうきち)

科学者、実業家。名誉工学博士・薬学博士。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。翌年、父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住。幼い頃から外国語と科学への才能を見せ、加賀藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦められた...
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森鷗外(もりおうがい)

明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎。 石見国津和野出身。東京大学医学部卒業。 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。代表作『舞姫』(1890年)『うたかたの記』(1890年)『ヰタ・セクスアリス』(1909年)『青年』(1910年)『雁』(1911年)『阿部一族』(1913年)『山椒大夫』(1915年)『高瀬舟』(1916年)『渋江抽斎』(1916年、史伝)生誕 文久2年1月19日〈1862年2月17日〉命日 1922年〈大正11年〉7月9日貞献院殿文穆思斎大...
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山県有朋(やまがたありとも)

日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。常用字体は山県有朋。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。生誕 1838年6月14日(天保9年閏4月22日)命日 1922年(大正11年)2月1日報国院釈高照含雪大居士<< 戻る
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安田善次郎(やすだぜんじろう)

富山県富山市出身の実業家。茶人。幼名は岩次郎。号は松翁。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。東京大学の講堂は死後に安田善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた...
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板垣退助(いたがきたいすけ)

武士、勤皇志士。軍人・政治家。自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。「憲政の父・国会を創った男」として知られる。明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。生誕 天保8年4月17日(1837年5月21日)命日 大正8年(1919年)7月16日<< 戻る
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井上円了(いのうええんりょう)

仏教哲学者、教育者。 多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学館を設立した。また迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。生誕 1858年3月18日(安政5年2月4日)命日 1919年(大正8年)6月6日<< 戻る
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前島密(まえじまひそか)

官僚、政治家。本姓は上野。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。今日も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。生誕 天保6年1月7日(1835年2月4日)命日 大正8年(1919年)4月27日(墓所、浄楽寺)<< 戻る
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大内青巒(おおうちせいらん)

明治期から大正期における仏教学者・思想家。父は仙台藩士大内権右衛門。名は退。字は巻之。別号を藹々居士。陸奥国仙台出身。はじめ宮城郡東宮浜(現在の七ヶ浜町)、後に常陸国水戸の寺院で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめた。1874年(明治7年)雑誌『報四叢談』、1875年(明治8年)新聞『明教新報』を発刊し、仏教における啓蒙思想家として活動した。1889年(明治22年)島地黙雷・井上円了らと共に天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成した。曹洞宗の『修証...
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夏目漱石(なつめそうせき)

小説家、評論家、英文学者、俳人。本名は夏目金之助。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。生誕 1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉命日 1916年〈大正5年〉12月9日文献院古道漱石居士<< 戻る
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上田敏(うえだびん)

評論家、詩人、翻訳家。文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。代表作『海潮音』(1905年)、『うづまき』(1910年)生誕 1874年(明治7年)10月30日命日 1916年(大正5年)7月9日含章院敏誉柳邨居士(森鷗外の撰)<< 戻る
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永倉新八(ながくらしんぱち)

幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。 松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。生誕 天保10年4月11日(1839年5月23日)命日 大正4年(1915年)1月5日釈義潤憲徳院義衛良行居士<< 戻る
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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4か月後に第15代将軍に就任。生誕 1837年10月28日〈天保8年9月29日〉命日 1913年〈大正2年〉11月22日<< 戻る
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桂太郎(かつらたろう)

武士、陸軍軍人、政治家。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。「ニコポン宰相」の異名を持ち、通算在職日数は2,886日。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、その翌年に病没した。生誕 1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉命日 1913年〈大正2年〉10月10日<< 戻る
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田中正造(たなかしょうぞう)

政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴したことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村出身。1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説を度々行った。12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行った。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。...
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岡倉天心(おかくらてんしん)

思想家、文人。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。横浜(神奈川県)生まれ。フェノロサと共に文化財保護の礎をつくり東京美術学校(現在の東京藝術大学)の創設に尽力。日本画の革新と美術学校の校長を務め、文化行政に携わり、思想家として著作を執筆し、ボストン美術館でキューレターとして活動した。それだけではなく、南画家に師事し、琴を学び、漢詩を残し、余暇には釣りを楽しみ、オペラの台本までも著していた。1862年横浜本町5丁目に生まれる。父岡倉覚右衛門。1873年東京日本橋に一家で移り、同年東京外国語学校に入学。1876年奥原晴湖に入門。1879年18歳でもとと結婚。1880年東京大学を卒業。同年、文部省に就職...
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乃木希典(のぎまれすけ)

武士、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王の教育係も務めた。生誕 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)命日 1912年(大正元年)9月13日<< 戻る
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明治天皇(めいじてんのう)

第122代天皇。諱は睦仁、称号は祐宮。お印は永。 倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍(徳川慶喜)がいた最後の天皇。「一世一元の制」を定め、複都制としながらも東京府に皇居を置いた。功績・人物像から明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれる。生誕 1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉命日 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日<< 戻る
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石川啄木(いしかわたくぼく)

歌人、詩人。歌集「一握の砂」生誕 1886年(明治19年)2月20日命日 1912年(明治45年)4月13日啄木居士<< 戻る
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小村寿太郎(こむらじゅたろう)

外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。爵位は侯爵。生誕 1855年10月26日(安政2年9月16日)命日 1911年(明治44年)11月26日<< 戻る
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菱田春草(ひしだしゅんそう)

明治期の日本画家。横山大観、下村観山と共に岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。代表作「王昭君図」「賢主菩薩」「落葉」「黒き猫」生誕 1874年(明治7年)9月21日命日 1911年(明治44年)9月16日<< 戻る