buddhism

人物

市川團十郎(3代目)(いちかわだんじゅうろう)

三代目 市川 團十郎は享保期の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。 享保6年 (1721) 生まれ。父は初代團十郎の高弟初代三升屋助十郎。生誕 享保6年(1721年)命日 寛保2年2月27日(1742年4月2日)<< 戻る
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朝日寺-岡山県瀬戸内市

・朝日寺 高野山真言宗 岡山県瀬戸内市邑久町庄田12071739年建立。廃寺復興の際には、1728年に客殿が先に建てられました。 その後1734年に本尊薬師如来が修復され、本尊様をきちんとお祀りするべく、 さらにその5年後にこの本堂が建立されました。(リンク先より) << 戻る
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広徳寺-北海道北斗市

・広徳寺 曹洞宗 北海道北斗市中央2丁目3−141736年 広徳寺は江戸時代からある曹洞宗のお寺です。高龍寺十一世華重禅海大和尚(けじゅうぜんかい だいおしょう)によって、元文元年5月10日に創立されました。当時は観音様のお寺として、観音庵と称され地域から親しまれてきました。(リンク先より) << 戻る
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江岸寺-岩手県上閉伊郡

・江岸寺 曹洞宗 岩手県上閉伊郡大槌町末広町10-11江岸寺の開山は、盛岡市にある法恩寺第三世幸岳東慶大和尚ですが、元文元年(一七三六)以来、再三の火災により本堂、講堂、什宝物、過去帳、古文書等、ほとんど焼失しているため由来を知ることが困難です(リンク先より) << 戻る
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楷定寺-大阪府高石市

・古今山 楷定寺 浄土真宗本願寺派 大阪府高石市取石2-24-11江戸時代中期の元文年間(一七三六〜一七四〇年)陽柳法師により創建せれたと伝えられています。現在の本堂は、江戸時代後期の文化十年(一八一三年)に建立されました。本尊の阿弥陀如来立像は、江戸時代に制作され、高さ六一・五㎝の寄木造りです。(リンク先より) << 戻る
人物

紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)

江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物である。架空の人物であるとする説もあるが、実在したとする説が主流である。生誕 寛文9年(1669年)命日 享保19年4月24日(1734年5月26日)帰性融相信士<< 戻る
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西代寺-兵庫県神戸市長田区

・西代寺 東寺真言宗 兵庫県神戸市長田区神楽町6-7-18創建年代は、お寺に古くからお祀りされている弘法大師像の裏面に享保19年(1734年)に造立と記されていることから、おそらく江戸時代中期にお寺が建立されたと推測致しますが、宥岳大和尚入寺前の寺号等については度重なる災害等で記録を無くし、不詳でございます。(リンク先より) << 戻る
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井戸正明(いどまさあきら)

江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。生誕 寛文12年(1672年)命日 享保18年5月26日(1733年7月7日)泰雲院義岳良忠居士<< 戻る
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渭信寺-愛知県岡崎市

・黄梅山 渭信寺 曹洞宗 愛知県岡崎市上衣文町字神五鞍30そぶみ観音 渭信寺は、享保十八年(西暦一七三三年)八月、三河路で初めてのご祈祷寺として開かれました。当寺のご本尊は運慶作と伝えられ、そもそもは加賀百万石(今の金沢市)の藩主、前田利家公の守り本尊だったと言われています。その御神体を当時前田家と縁の深かった、金沢大乗寺の三十一代目のご住職、智燈照玄和尚様が隠居される時に、この地へ移されました。それが、このお寺の始まりというわけです。(リンク先より) << 戻る
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西永寺-新潟県十日町市

・西永寺 真宗大谷派 新潟県十日町市上野甲87西永寺(さいえいじ)は、新潟県十日町市にある1727年(享保12年)創建の真宗大谷派の寺院。 1835年(天保6年)焼失後、1848年(嘉永元年)に再建される。(リンク先より)・西永寺 - Wikipedia
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祥福寺-香川県高松市

・祥福寺 曹洞宗 香川県高松市西春日町1626祥福寺は江戸時代、初代高松藩主松平頼重公に招かれた鶴洲和尚を開山とし、享保十一(1726)年二代藩主頼常公の時に禅宗の一派である黄檗宗本山満福寺の末寺・瑞亀山祥福寺として宮脇邑(現宮脇町)に創建された後、曹洞宗に改宗されました。(リンク先より) << 戻る
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近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛。平安堂、巣林子、不移山人と号す。家紋は「丸に一文字」。代表作『曽根崎心中』(1703年)『冥途の飛脚』(1711年)『国性爺合戦』(1715年)『心中天網島』(1720年)忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている(明治以降は新暦で行われる)。生誕 承応2年〈1653年〉命日 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉阿耨穆矣一具足居士<< 戻る
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隆光(りゅうこう)

江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。生誕 慶安2年2月8日(1649年3月20日)命日 享保9年6月7日(1724年7月26日)<< 戻る
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向陽寺-熊本県上天草市

・向陽寺 曹洞宗 熊本県上天草市松島町合津2856九州三十三観音霊場二十一番札所 松島慈光観音 開基 天光丹瑞和尚 建立 享保8年向陽寺は熊本県天草の松島、風光明媚な雲仙天草国立公園の一角にあります。 当山は、旅の僧、悟室宗舜上座により観音様のお堂が建てられたとされています。(リンク先より)※享保8年 1723年 << 戻る
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華厳寺(鈴虫寺)-京都府京都市西京区

・華厳寺(鈴虫寺) 臨済宗永源寺派 京都府京都市西京区松室地家町31秋だけでなく、四季を通じて鈴虫の音色を聞くことのできる境内。それゆえ「鈴虫寺」の名で親しまれている当寺ですが、正式な名称は「妙徳山 華厳寺(みょうとくざん けごんじ)」といいます。華厳寺は江戸時代中期の享保8年(1723)、華厳宗の再興のために鳳潭上人(ほうたんしょうにん)によって開かれ、現在は臨済宗に属する禅寺となっています。(リンク先より) << 戻る
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報恩寺-奈良県宇陀市

・報恩寺 浄土宗 奈良県宇陀市大宇陀区大東45当、報恩寺は、享保6年6月2日、開基裕誉智圓尼の創始によるものであり、詳しい縁起は残されていないのですが、大宇陀のお墓守のお寺としての役割を果たしております。そして、昭和17年の宗教団体法が施工されるに当たり、同年10月18日付で浄土宗 総本山知恩院の末寺として承認され、今日に至ります。(リンク先より)※享保6年 1721年 << 戻る
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安城寺-愛媛県松山市

・安城寺 黄檗宗 愛媛県松山市朝美2-5-16安城寺は、享保5年(1720年)徳川8代将軍吉宗のとき、松平定英が松山城主となり、享保8年(1723年)松山城と城下町が安泰でありますようにとの願いから「安城寺」と名付け、石門和尚により開山されました。(リンク先より) << 戻る
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養平寺-埼玉県熊谷市

・養平寺のホームページ 真言宗霊雲寺派 埼玉県熊谷市原島1192当山は「真言宗霊雲寺派有應山浄圓院養平寺」と称し享保五年七月二十四日、天下泰平・国家安全を祈念し新発田藩七代目藩主の溝口出雲守直温公により創建されました。東京都文京区湯島の霊雲寺を総本山とし、創建から霊雲寺派として宗祖弘法大師並びに派祖浄厳大和尚の法灯を灯す真言宗の寺院です。(リンク先より)※享保五年 1720年 << 戻る
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本龍寺-富山県高岡市

・本龍寺 浄土真宗本願寺派 富山県高岡市末広町1005浄土真宗本願寺派 光慶寺11代了寿の2男恵仁が、享保4年(1719)5月、佐賀野村で一宇を建立して本龍寺と称した。享保15年(1730)6月、本寺の光慶寺が移転したので、これに応じて鴨嶋村(現博労)へ移った。明治の大火の後、明治30年6月再び高岡市末広町に移転して現在に及んでいる。(リンク先より) << 戻る
人物

祐天(ゆうてん)

祐天とは、浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師。字は愚心。号は明蓮社顕誉。 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説がある。祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まった。生誕 寛永14年4月8日(1637年5月31日)命日 享保3年7月15日(1718年8月11日)<< 戻る
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日本橋西河岸地蔵寺教会-東京都中央区

・日本橋西河岸地蔵寺教会 単立 東京都中央区八重洲1-2-51718年に地蔵堂を建立し正徳院と称していましたが、東京の空襲で燃えてしまい、昭和24年に現在の名称に変えて再建されました。現在のお堂は昭和52年に建て替えられたものとのことです。この寺院には行基菩薩が彫刻した地蔵菩薩像があり、至心で祈願すれば日ならずしてご利益を授かることから「日限地蔵尊」と呼ばれています。<< 戻る
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総持院-愛知県岡崎市

・総持院 臨済宗東福寺派 愛知県岡崎市岡町字西野々宮17開創は享保三年(1718)、開山は唱宗和尚である。本尊様は阿弥陀如来坐像、鎮守様は秋葉山大権現。800年程前にあった薬師堂を基に開かれた寺院である事から、山号を「薬王山」とされている。(リンク先より) << 戻る
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尾形光琳(おがたこうりん)

江戸時代の画家、工芸家。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。生誕 万治元年(1658年)命日 享保元年6月2日(1716年7月20日)法橋緒形青々堂光琳<< 戻る
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永平寺別院長谷寺-東京都港区

・永平寺別院長谷寺 曹洞宗 東京都港区西麻布2-21-34かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地には、古くから観音堂が建ち、奈良の長谷寺の観音さまと同木で造られたという、小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていました。時流れて徳川家康公開府の後、この観音堂を基に補陀山長谷寺が開かれました。家康公の幼馴染みでもあった高僧、門庵宗関大和尚(もんなんそうかんだいおしょう)をご開山に2万余坪の寺領を賜ったと伝えられます。正徳6年(1716年)2丈6尺の大観音を建立。古仏は尊像の体内にお納めし、江戸屈指の観音霊場・江戸観音霊場第22番札所として尊崇(そんすう)を集めました。(リンク先より) << 戻る
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蓮華寺-兵庫県養父市

・蓮華寺 高野山真言宗 兵庫県養父市大屋町夏梅682帰命山安養寺とし開創。江戸時代の慶長~元和頃に藤堂高虎公栃尾谷城本居館跡地に重塔を移築改装し赤堂とする。栃尾山蓮華寺と名を改める。元禄年間に帰農した元高虎家臣の子息が津藩に仕官。それに伴い、山号抹消。享保年間に、西谷山 蓮華寺と再興す。(リンク先より)※享保年間 1716年から1736年 << 戻る
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法眼寺-静岡県賀茂郡

・法眼寺 臨済宗建長寺派 静岡県賀茂郡西伊豆町仁科860-1かつては仁科の安城山麓にあった法眼庵という小さな庵でしたが、海濤により大破、荒廃しました。 享保年間にこの地を修行で通りかかった僧・幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としました。(リンク先より)※享保年間  1716年から1736年 << 戻る
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渋川春海(しぶかわはるみ/しゅんかい)

江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。生誕 寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)命日 正徳5年10月6日(1715年11月1日)<< 戻る
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森川許六(もりかわきょりく)

江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。生誕 明暦2年(1656)8月14日命日 正徳5年(1715)8月26日<< 戻る
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柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。生誕 万治元年12月18日(1659年1月10日)命日 正徳4年11月2日(1714年12月8日)永慶寺保山元養<< 戻る
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木山寺-岡山県真庭市

・木山寺 高野山真言宗 岡山県真庭市木山1212木山寺、木山神社はもとは神仏習合で、木山宮(きやまぐう)として、多くの人々の信仰を集めてきましたが、明治時代の神仏分離政策によって、木山寺と木山神社に別れました。 ご本尊は、医王の霊薬をもってあらゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来。鎮守神の木山牛頭天王は薬師如来の化身で、除災招福の大願を成就されています。善覺稲荷大明神は、ご本地十一面観音の化身で、正徳年間(1714年)京都伏見稲荷より勧請された明神様です、勧請し祀った僧が善覺という名僧で、その徳を称えて善覺稲荷と呼ぶようになりました。(リンク先より)<< 戻る
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仏心寺-岡山県岡山市中区

・仏心寺 単立 岡山県岡山市中区湊449正徳四年(1714年)年岡山藩主池田綱政の姉(一条右大臣教輔夫人)の発願による建立と伝えられる当寺院には、池田家縁のものが残されています。写真の門、鬼瓦にも池田家の家紋である蝶の紋が施されています。(リンク先より) << 戻る
人物

狩野常信(かのうつねのぶ)

江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。生誕 寛永13年3月13日(1636年4月18日)命日 正徳3年1月27日(1713年2月21日)常心院古川道雲日観大居士<< 戻る