【仏教用語/人物集 索引】

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

投稿日:1481年11月21日 更新日:

 
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で詩人。説話「一休さん」のモデルとしても知られます。号に狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、国景(こっけい)があり、諱を宗純(宗順)といいます。

出生地は京都で、後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。母親の出自は不明ですが、後小松天皇説に沿えばその官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。幼名は、後世史料によると千菊丸とされています。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門し、周建の名前を授かりました。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となったといいます。

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改めます。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず、近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が止めに入ったといいます。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となります。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かります。なお、有漏路(うろじ)とは迷い(煩悩)の世界、無漏路(むろじ)とは悟り(仏)の世界を指します。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。華叟は印可状を与えようとしますが、一休は辞退しました。華叟はばか者と笑いながら送り出したといいます。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。

正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位しましたが、この即位には一休の推挙があったといいます。

文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられました。寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建されました。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたといいます。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わります。

生誕 明徳5年1月1日(1394年2月1日)

命日 文明13年11月21日(1481年12月12日)

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