【仏教用語/人物集 索引】

スッタニパータ【第3 大いなる章】10、コーカーリヤ

投稿日:0202年5月28日 更新日:

 わたしが聞いたところによると、ある時、尊き師ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林にある孤独な人々に食を給する長者の園におられた。その時、修行僧コーカーリヤのおられるところに赴いた。そうして、に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤに向って言った、「尊き師ブッダ)よ。サーリプッタモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に捕らわれています。」
 そう言ったので、ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは再びに言った、「尊き師よ。わたくしはを信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に捕らわれています。」

 は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは三たびに言った、「尊き師よ。わたくしはを信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求に捕らわれています。」

 は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 そこで修行僧コーカーリヤは座から起こって、に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、彼の全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。初めは芥子粒ほどであったものが、次第に小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、ナツメの核ほどになった。ナツメの核ほどあったものが、ナツメの果実ほどになった。ナツメの果実ほどあったものが余甘子(ヨカンシ/アムラ)ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪(ぼけ/パパイヤ)の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とがほとばしり出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。

 その時サハー(娑婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、のおられるところに赴いた。そうしてに敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。

 さて、その夜が明けてから、は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」

 このように説かれた時に、一人の修行僧に告げて言った、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」

 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることは難しい。」

 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することが出来るでしょう。」

 「修行僧よ。それはできるのです」と言って、は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄の時期に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄の時期に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄の時期に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄の時期に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄の時期に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄の時期に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄の時期に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄の時期に等しい。二十の白蓮地獄は一つの紅蓮地獄の時期に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」

 はこのように言われた。幸せな人であるは、このことを説いてから、さらに次のように言われた。

657 人が生まれた時には、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 そしるべき人を誉め、また誉むべき人をそしる者、彼は口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることが出来ない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダの巨大な年数の間、また五つのアッブダの巨大な年数の間地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪い報いが戻ってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲にふける者は、言葉で他人をそしる。彼自身は、信仰心なく、物惜しみして、不親切で、けちで、やたらに陰口を言うのだが。

664 口きたなく、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長い間深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者のも滅びることはない。それは必ず戻ってきて、をつくった主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 地獄に墜ちた者は、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、昔つくったに相応しい当然なことである。

668 地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などと言って、誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもって向ってくることなく、頼りになってくれない。地獄に墜ちた者どもは、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは地獄の獄卒どもは鉄の網をもって地獄に墜ちた者どもをからめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に地獄に堕ちた者どもは火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。彼がその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、膿と血とに触れて汚される。

672 またウジ虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、地獄に墜ちた者どもがその中に入ると、手足を切断される。地獄の獄卒どもは鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に地獄に墜ちた者どもは、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶ彼らを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちに為すべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者の寿命の年数は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳を目指して、常に言葉と心をつつしむべきである。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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