【仏教用語/人物集 索引】

スッタニパータ【第1 蛇の章】4、田を耕すバーラドヴァージャ

投稿日:0202年5月28日 更新日:

 わたしが聞いたところによると、あるとき尊き師ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。その時、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。

 その時、ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでその時、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは食物を配給していた。

 そこでは食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、が食を受けるために立っているのを見た。そこでに告げて言った、

「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と

は答えた、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。

バラモンが言った、「しかし我らは、ゴータマさんブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは詩を以てに呼びかけた。

76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、我らはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。あなたが耕作するということを、我々が了解し得るように話して下さい。」

77 は答えた、「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧が我が軛と鋤である。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。

78 身をつつしみ、言葉をつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって牛の軛を離すことである。

79 努力が我が軛をかけた牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

 その時、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、ブッダ)にささげた。「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから。」

81 詩を唱えて報酬として得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが目ざめた人々の生活法なのである。

82 全き人である大仙人、煩悩の汚れを滅ぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための福田であるからである。

「では、ゴータマブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」

「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)と彼の弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、あるいは生物のいない水の中に沈めよ。」

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。

さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。たとえば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。

 その時、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは恐れおののいて、身の毛がよだち、ブッダ)のもとに近づいた。そうしての両足に頭を伏せて、礼拝してから、に言った、

「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。たとえば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々の仕方で真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧の集いに帰依します。わたしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)をうけましょう。」

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このバラモン・バーラドヴァージャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極(諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが)を現世においてみずから悟り、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。為すべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」

と悟った。そうしてバーラドヴァージャさんは聖者の一人となった。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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