【仏教用語/人物集 索引】

蓮如(れんにょ)

投稿日:1499年3月25日 更新日:

 
蓮如とは、室町時代の浄土真宗の僧です。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首を務めました。大谷本願寺住職でもあります。諱は兼壽で、院号は信證院です。法印権大僧都、本願寺中興の祖とも呼ばれます。また、本願寺蓮如とも呼ばれます。浄土真宗では、蓮如上人と尊称されています。1882年に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されました。

蓮如は、応永22年(1415)に本願寺第七世・存如の長男として京都に生まれました。母は蓮如が6歳の時に事情があって本願寺を去りました。その時の形見として持っていったのが『 鹿子の御影』(かのこのみえい)です。

永享3年(1431)、蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において得度しました。当時の本願寺は経済的に苦しい不遇の時代でしたが、蓮如は父・存如について、宗学の研鑽を積み、近江や北陸での教化を助けました。東日本の親鸞聖人の旧跡へも歴訪しました。

長禄元年(1457)、本願寺第八世を継ぐと、近江の教化につとめます。蓮如は「御文」(おふみ)による文書伝道や名号の精力的な下付など、独自の布教活動を展開し、それによって本願寺の教線は大きく伸展しました。しかし、比叡山延暦寺衆徒の本願寺破却にあい、親鸞の御真影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とします。

文明3年(1471)、ようやく越前吉崎に吉崎御坊を建立するに至りました。そこには多くの参詣者がつめかけるようになり、その周囲には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒をつらね、吉崎には門前町が形成されました。しかし、吉崎御坊に人々が集まるほど、周囲の権力者や他宗との間に軋轢が生まれます。そういった状況をおさえるため、蓮如は、文明7年(1475)吉崎を後にしました。

その後、蓮如は、摂津・河内・和泉に布教します。河内国出口では御坊を建立しますが、すぐに参詣者であふれるようになり、門徒の間には皆で聞法できる御堂の建立を望む声が広がります。そして文明13年(1481)、京都・山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、蓮如はついに本願寺の再興を果たしました。

「寺中は広大無辺、荘厳ただ佛国のごとし」と言われた山科本願寺の建立以後、真宗他派が相次いで多くの門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な教団へと発展しました。

蓮如は延徳元年(1489)隠居しますが、明応5年(1496)には大坂石山に坊舎を建て、山科との間を往復して、晩年も教化の手を休めませんでした。明応8年(1499)、山科本願寺で多くの弟子や門徒たちに見守られる中、蓮如は85年のご生涯を終えられました。今日の本願寺教団の基盤を築いたと考えられています。

生誕 応永22年2月25日(グレゴリオ暦1415年4月13日)(ユリウス暦1415年4月4日)

命日 明応8年3月25日(グレゴリオ暦1499年5月14日)(ユリウス暦1499年5月5日)

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