【仏教用語/人物集 索引】

道元禅師(どうげんぜんじ)

投稿日:1253年8月28日 更新日:

 
道元とは、鎌倉時代初期の僧侶で、日本における曹洞宗の開祖です。晩年に希玄という異称も用いました。高祖と尊称されます。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれます。天童如浄に就いて嗣法。弟子には孤雲懐奘がいる。

徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りが明らかになるという修証一等、只管打坐の禅を伝えました。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めました。

道元は、鎌倉時代の1200年1月26日に京都で生まれました。諸説ありますが、お父さんは内大臣久我通親(こがみちちか)、お母さんは摂政関白藤原基房の娘である伊子(いし)だと言われています。9歳で部派仏教の教義体系を整理・発展させた研究書である『倶舎論』を読んだとの逸話も残っています。

1213年、比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ね、翌年、14歳の道元は比叡山座主・公円について剃髪出家得度します。この頃から仏法房道元と名乗ります。比叡山では天台教学を中心に学びましたが、経文にある「本来本法性 天然自性身」(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)という言葉に大きな疑問をいだきます。

分かりやすく言うと「人間は生まれながらに仏性を持っているから、その身そのままで仏になれる」ということです。道元は「それではなぜ、仏の教えを伝えてきた多くの仏やお坊さんは、わざわざ心を決め修行をする必要があるのだあろうか?」という疑問を持ちました。

園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ねますが解決せずに、1217年、そのすすめにより建仁寺へ向かい、栄西の弟子である明全の下で学びます。ところが当時、その疑問に答えることが出来る人は見つかりませんでした。

1223年、道元24歳のとき、明全と共に博多から南宋(中国)に行き、お寺を巡ります。そのうち、天童山にて天童如浄と巡りあいます。道元は如浄を生涯の師として仰ぎ、坐禅修行に励みます。ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継ぎました。

1228年、28歳の道元は5年におよぶ修行を終え日本に帰国しました。帰国後直ちに著した『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。その後『弁道話』を著し、『正法眼蔵』(しょぼうげんぞう)の最初の巻となりました。

1233年、34歳の時に、京都の深草に興聖寺を開きました。僧団が大きくなるなるにつれて興聖寺への比叡山からの外圧が加わるようになります。また如浄禅師の「国王大臣に近づかず、深山幽谷にて仏の道を行じ、仏の弟子を育てなさい」との教えもあり、1243年7月、越前国(福井県)の地頭である波多野義重のすすめで越前志比荘の山中に移り、翌年、傘松峰大仏寺を建立します。

寛元4(1246)年、 大佛寺を吉祥山永平寺に改め、自身の号も希玄と改めました。

1247年、執権北条時頼、波多野義重らの招請により、鎌倉に赴き、半年という短期間ではありましたが武士をはじめとする多くの人々を教化されました。

1252年、夏頃から体調を崩し、翌年には永平寺の貫首を弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲ります。8月には療養のため京都の俗弟子・覚念の屋敷(京都高辻西洞院)へ行きましたが、1253年9月29日(旧暦8月28日)に54歳で亡くなります。

生誕 正治2年1月2日(1200年1月19日)

命日 建長5年8月28日(1253年9月22日)

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