【仏教用語/人物集 索引】

ジョン万次郎(ジョンまんじろう)- 中浜万次郎

投稿日:1898年11月12日 更新日:

 
江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎を名乗った。

天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった。

万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって遭難してしまう。5日半(資料によっては10日間[2])を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びた。同年5月9日(1841年6月27日)、万次郎達は、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された。

捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得ず、1841年11月20日、ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問であったGerrit P. Juddの計らいでこの地で船を降りている。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしている。

ただひとり万次郎は捕鯨船員となることを希望して船に乗り続け、アメリカ本土を目指すことになった(船員として利益全体の1/140を報酬として受け取ることになっていた)。これは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られたためでもあった。航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いている。また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、船名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。この航海でグアム、ギルバート諸島、モーレア島、ホーン岬などを経由している。アメリカ本土に渡った万次郎は、ニューベッドフォードの隣町で船長のウィリアム・ホイットフィールドの故郷であるフェアヘーブンで、エバニーザー・エーキン宅に2週間預けられた後、船長の養子のように一緒に暮らすことになる。

1843年(日本は天保14年)にはオックスフォード・スクールでジェームズ・アレンから小学生に混じり英語を学んだ。船長が農場のスコンチカットネックに移った後、しばらく船長の叔母アメリアと住んでいたが、後に万次郎も移った。ここでスコンチカットネック・スクールに通い、1844年(弘化元年)にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

学校を卒業後は桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日ニューベッドフォード出港、航海中船長が精神に異常をきたしたため、マニラで下ろし、万次郎が船員達の投票により副船長に選ばれた(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位は譲った)。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球の小島に上陸しているが、帰国は果たせなかった。

この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行き、万次郎は$350を報酬として受け取っている。

1849年9月、再びニューベッドフォードに戻り船長ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへスティグリッツ号で水夫として渡り(1849年11月27日出発、途中ホーン岬、タルカワノもしくはバルパライソを経由し1850年(嘉永3年)5月に到着)、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。

初めはアメリカ生まれのオランダ人の元で働くが、彼がギャンブルで大金を失ったため知人と自ら掘った。そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたSamuel C. Damonの協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。

嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた(7月30日着)。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。

斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。

高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。

帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。

嘉永6年(1853年)7月8日ペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから 7月25日、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。

勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。

生誕 1827年1月27日〈文政10年1月1日〉

命日 1898年〈明治31年〉11月12日

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