和気清麻呂(わけ の きよまろ)

投稿日:0799年2月21日 更新日:

 
奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。

769年(神護景雲3年)、和気清麻呂の姉である尼僧・和気広虫(わけ の ひろむし)は、称徳天皇から宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)をいただいてくるよう命じられましたが、九州までの長旅は虚弱な身体では耐えられないだろうという理由で、弟である和気清麻呂が代わりに向かうことになりました。その神託の内容は、称徳天皇が寵愛していた「僧・道鏡を皇位につける」という内容でした。

神託に従えば、神武天皇から続いてきた皇族による皇位継承が途絶えることにもなります。そもそも、称徳天皇は生涯独身で子どもがなく、孝謙上皇時代(第46代孝謙天皇と第48代称徳天皇は同じ人物で女帝。孝謙天皇が第47代淳仁天皇に皇位を譲り上皇になっていた)に淳仁天皇と争ったこともあり、「皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない」と定め、道鏡と二頭体制で政治を行っていました。

そもそもの話は、道鏡の弟である習宜阿曾麻呂(すげのあさまろ)が「道鏡を皇位につかせたなら天下は安泰である」という神託を宇佐八幡宮の神からいただいたと称徳天皇へ報告したことから始まっていました。称徳天皇はこれを確認するために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ向かわせることにしたのです。

道鏡からは「良い返事をもって帰れば高位高官を与えよう」と言われた和気清麻呂ですが、宇佐八幡宮の神より位の高い大神より次のように神託を授かったと、称徳天皇に報告しました。

「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」

(天皇には必ず皇族をたてなさい。無道(そうではない)人(道鏡)は、早く掃い除くべし)

これを聞いた称徳天皇は怒って、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と姉の和気広虫を別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させて大隅国への流罪にしました。(宇佐八幡宮神託事件)

道鏡は配流途中の和気清麻呂を追って暗殺を試みましたが、失敗したともいわれます。一方、称徳天皇は、和気清麻呂が神託を持ち帰った翌年の770年3月に発病し、8月に崩御しています。称徳天皇の崩御によって道鏡は失脚し、天智天皇の血を継ぐ白壁王(光仁天皇)が新しい天皇に決まりました。

称徳天皇と道鏡がいなくなると、和気清麻呂はすぐに京に呼び戻され、宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任じられて官界に復帰しました。天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられます。桓武天皇の側近となって平安京遷都を提案し、みずから平安京造営事業の指揮を執ったといわれます。

生誕 天平5年(733年)

命日 延暦18年2月21日(799年4月4日)

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